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2019年07月22日(月)
平磯磯前神社への礒出
額田神社も磯出をしている。矛を競い礒前神社にむかった。鈴木為助氏が書いた額田大祭礼絵図にはそのような分がみうけられる。この話をしたら高校の同級生が真弓山神社もしていたという。光圀の指示に従ってやっていたという話だ。常井君の磯出について紹介しよう。真弓山もかっては東、西両金砂山と一緒に日立市水木浜に磯出していた。その後、真弓山は正徳5年(1715)の第13回からは磯浜(ひたちなか市の平磯浜)に磯出をするようになったという。それでは、どのような道順で磯浜まで磯出をしたのだろうか? 私は12,3年ほど前に、生家の農作業を手伝っていたときに、私が経っている道幅2Mほどの細い農道を指して、母が「地元の老人から聞いた話だが昔はこの道を(磯出の)行列が通ったそうだ」と言った。それは昔、この道を真弓山が磯浜に磯出をしたときに、通った道だろうと思われる。その道とは、常陸太田市大森町の常磐道の西側に隣接する大森団地の五十Mのほど右側を通り、日立市大和田町大橋に通じる市道である。
現在とは道路事情も、久慈川の流水経路も全く違い、また、徒歩か馬での移動が中心の時代、推測するに無理があるし、確証がないがこの伝聞をもとに真弓山から磯浜までの道順を東海村辺りまで推測して見ようと思う。
第一の私案として、真弓神社を出て、表参道を下り、県道亀作石名坂坂線のバス停の“弁天入口”を左折し、真弓町の田楽場内で田楽舞を行った後、再び、県道に戻り、石名坂方面に進む。途中の大森町山根地区で常磐自動車道と立体交差する百米ほど手前を右折して市道を南に一から1.5キロほど進むと、水門地区の市道左側にW様宅がある。このW様の南西角に、大正二年に置かれた石の道標があり、そこには、『小目ヲ経テ太田町ニ至ル、大森ヲ経テ真弓山ニ至ル』と刻んである。この道標を左折し、道なりに南に進み、常磐自動車道高架下を通り、旧六号国道の大橋地区に出る。現在の茂宮川に架かる大橋の三十米ほど下流で川を渡り(最初の大橋は元禄年間に架設)、田中内の国道二百九十三号の信号のある交差点を百五十から二百米ほど進み、左折して、国道六号を横断して、1.5キロほど直進すると、日立市立東小沢小学校の脇に出る。小学校の少し東、東海村竹瓦の飛び地原坪辺りで久慈川を渡り、(竹瓦橋、別名香取橋の木橋は明治三一年に架設)、東海村の竹瓦、石神内宿、石神城跡を白方、村松虚空蔵堂の西側、照沼を経て、磯浜に向かうコース。
第二の私案として、現在の国道六号の久慈川に架かる榊橋(明治二八年に舟を連ねてその上に木を敷いた浮橋を架設、因みに榊は土木内の『木』と石神の『神』を合わせて『榊』とした文字)辺りで久慈川を渡って、石神外宿に入り、間もなく左折し、東海村立石神小学校脇を通り、石神内宿、石神城跡の西から南側経て、第一私案の道に合流するコースが考えられる。
道順もさることながら、途中で田楽舞を行ったのか、渡御行列の規模、人数はどれほどかなと疑問は増すばかりである。『金砂大田楽研究会会報 第三七号から引用掲載』
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現在とは道路事情も、久慈川の流水経路も全く違い、また、徒歩か馬での移動が中心の時代、推測するに無理があるし、確証がないがこの伝聞をもとに真弓山から磯浜までの道順を東海村辺りまで推測して見ようと思う。
第一の私案として、真弓神社を出て、表参道を下り、県道亀作石名坂坂線のバス停の“弁天入口”を左折し、真弓町の田楽場内で田楽舞を行った後、再び、県道に戻り、石名坂方面に進む。途中の大森町山根地区で常磐自動車道と立体交差する百米ほど手前を右折して市道を南に一から1.5キロほど進むと、水門地区の市道左側にW様宅がある。このW様の南西角に、大正二年に置かれた石の道標があり、そこには、『小目ヲ経テ太田町ニ至ル、大森ヲ経テ真弓山ニ至ル』と刻んである。この道標を左折し、道なりに南に進み、常磐自動車道高架下を通り、旧六号国道の大橋地区に出る。現在の茂宮川に架かる大橋の三十米ほど下流で川を渡り(最初の大橋は元禄年間に架設)、田中内の国道二百九十三号の信号のある交差点を百五十から二百米ほど進み、左折して、国道六号を横断して、1.5キロほど直進すると、日立市立東小沢小学校の脇に出る。小学校の少し東、東海村竹瓦の飛び地原坪辺りで久慈川を渡り、(竹瓦橋、別名香取橋の木橋は明治三一年に架設)、東海村の竹瓦、石神内宿、石神城跡を白方、村松虚空蔵堂の西側、照沼を経て、磯浜に向かうコース。
第二の私案として、現在の国道六号の久慈川に架かる榊橋(明治二八年に舟を連ねてその上に木を敷いた浮橋を架設、因みに榊は土木内の『木』と石神の『神』を合わせて『榊』とした文字)辺りで久慈川を渡って、石神外宿に入り、間もなく左折し、東海村立石神小学校脇を通り、石神内宿、石神城跡の西から南側経て、第一私案の道に合流するコースが考えられる。
道順もさることながら、途中で田楽舞を行ったのか、渡御行列の規模、人数はどれほどかなと疑問は増すばかりである。『金砂大田楽研究会会報 第三七号から引用掲載』