山車や神輿の歴史は古く、江戸末期、明治初期にかけ日光の東照宮の彫刻の流れをくむ後藤流の彫刻師や隣村の宮大工棟梁大森氏の一派により建造された。町内では戸数も少なく、費用の負担が大きく逃散に及ぶものも出た。隣組の掟である村の十分を実行できなかったのである。その1分に祭があったのである。どんな状況でも2分の交際はした。これを村八分という。火事と葬式だけで祭は許されなかったのである。工賃は米の分割で10年もかけて払ったのである。明治13年の後藤梅介や明治24年の杉村の大森利介の名が記述として残されている。大正9年の大祭礼は13台の屋台と3代の山車の写真が残されているが当家は人口が少ないため親戚を巻き込んで、手伝いを募り手伝い分の浴衣の準備と赤飯を炊き振る舞いをしたというから大変な負担だった。当初は浜下りを那珂湊までし、酒烈磯崎神社も関わったようである。大祭礼絵巻には官幣神社の馬に乗った神官の姿がある。
祭りとはある集団がその運命の重要な時期にその集団の守護神を迎え、その前に総力をあげて、食物を供え、また唄舞を演ずることで神人交歓の場を作り出すことである。これは神霊を鎮めるため行ったと言われる。地域では4月9日が春の例祭、陰暦9月の9日が秋の例祭を催した。額田の例祭にはその何年かに一度祭典があり、天保4年4月から行われて記録がある。【那珂町史】それ以前は磯降りが行われていた。