1690年10月14日(元禄3年)に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の高松の綱條が水戸藩主を継いだ。権中納言に翌15日に任じられた。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着、5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所西山荘に隠棲した。佐竹領民監視もあり、60余人が伺候した。
同年4月、佐々を楠正成が自刃したとされる湊川に派遣し、楠正成を讃える墓を湊川神社に建造させた。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。また同年、藩医であった穂積甫庵に命じて『救民妙薬』を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。
元禄6年から数年間、水戸藩領内において八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。佐竹に繋がる八幡社を整理し寺社改革をし、、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。
元禄7年3月、5代将軍綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、家臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。
元禄9年)12月23日、亡妻・泰姫の命日に落飾する。寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた日乗上人らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。72歳頃から食欲不振が目立ち始め、1700年元禄13年12月6日に死去した。73歳(満71歳没)。
権中納言が黄門を表わし、湊川への佐々介三郎の派遣が漫遊記として講談やや映画、テレビに面白、おかしく取り扱われるようになっていく。全国行脚は行われていない。鎌倉の法事に出かけたのが最も遠方といわれている。
日乗日記は久昌寺摩訶衍庵の開基の日乗上人が、1649年(元禄4)1月1日から同16年2月15日までのほとんど毎日書き続けた日記で、13冊1041 枚からなっており、光圀の西山荘隠居後の生活のほか、元禄時代の世相風潮や生活の実態、気象などといった豊富な資料に満ちた貴重な記録といえる。
同年4月、佐々を楠正成が自刃したとされる湊川に派遣し、楠正成を讃える墓を湊川神社に建造させた。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。また同年、藩医であった穂積甫庵に命じて『救民妙薬』を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。
元禄6年から数年間、水戸藩領内において八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。佐竹に繋がる八幡社を整理し寺社改革をし、、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。
元禄7年3月、5代将軍綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、家臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。
元禄9年)12月23日、亡妻・泰姫の命日に落飾する。寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた日乗上人らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。72歳頃から食欲不振が目立ち始め、1700年元禄13年12月6日に死去した。73歳(満71歳没)。
権中納言が黄門を表わし、湊川への佐々介三郎の派遣が漫遊記として講談やや映画、テレビに面白、おかしく取り扱われるようになっていく。全国行脚は行われていない。鎌倉の法事に出かけたのが最も遠方といわれている。
日乗日記は久昌寺摩訶衍庵の開基の日乗上人が、1649年(元禄4)1月1日から同16年2月15日までのほとんど毎日書き続けた日記で、13冊1041 枚からなっており、光圀の西山荘隠居後の生活のほか、元禄時代の世相風潮や生活の実態、気象などといった豊富な資料に満ちた貴重な記録といえる。
佐佐十竹は常陸太田の正宗寺に墓があります。彰考館総裁として活躍、神戸湊川に楠正成の顕彰碑を光圀の命により建てました。
萬秀山正法院と号する寺院で,延長元(923)年に平将門の父良将が創建。 創建当初は勝楽寺と号し,律宗で奉仕されていました。その後,貞王2(1223)に佐竹氏4代秀義が勝楽寺の境内に正法院を,暦応4(1341)年に9代 貞義の子である月山周枢が師の夢窓疎石を招き,同じ寺院内に正宗庵を創建。10代義篤が正宗庵を臨済禅刹に改めて正宗寺としました。 勝楽寺と正法寺は後の争乱によって衰えたが,正宗寺は佐竹氏の菩提所として,関東十刹の一つに挙げられるまでに繁栄。徳川の時代にも朱印100石を受 け,12の末寺を有するまでになりました。境内は約5,300平方メートル,堂宇は本堂,庫裏,総門などを備えていたが,天保9(1838)年に総門の一 部を残して焼失。現在の庫裏と本堂は,それぞれ天保10(1839)年と明治3(1870)年に再建されたものです。 寺伝では慈覚大師の作とあるが,様式から鎌倉時代に建造されたものとみられます。本尊の木造十一面観音菩薩坐像をはじめ,多くの寺宝が茨城県や常陸太田市 の文化財に指定されており,境内には佐竹氏代々の墓と伝えられる宝篋印塔や,「助さん」のモデルとされる佐々宗淳の墓があります。 |
徳川頼房(徳川家康の十一男で、徳川頼宣の弟)は、兄の頼将(頼宣)の駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領したが、幼少のため駿府城の家康の許で育てられた。家康の死後(1543年〜1616年)、駿府から江戸に移ったのちもしばらく水戸藩領には赴かず、1619年(元和5年)10月、17歳のとき初めて水戸に就藩した。
2、元和5年(1619年) 紀州初代藩主 徳川頼宣
徳川頼宣は、水戸には入らずじまいで、慶長11年(1606年)、駿府50万石に転封され、駿府城に入って家康の許で育てられた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍し、1619年(元和5年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。 徳川頼宣は、紀州淡島神社(総本社)を修復し保護し、江戸時代に淡島神社は全国に普及した(末社1,000社)。本説明は、額田淡島神社の設置や、額田古宿町の山車の彫物の謂れに関係することになる。
3、慶安元年(1648年)徳川将軍家光公よりご朱印地
江戸幕府の第3代将軍 徳川家光により額田の鹿嶋宮にご朱印地15石、八幡宮に20石が授けられた。
4、寛文元年(1661年)8月 水戸二代目藩主 徳川光圀
水戸黄門こと徳川光圀
徳川光圀は、常陸国水戸藩の第2代藩主で、寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。
「水戸黄門」としても知られる。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。
儒学を奨励し,彰考館を設けて朱舜水など俊才を招き,「大日本史」を編纂し水戸学の基礎となった。元禄13年(1700)73歳(満71歳)で歿した。
実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。
光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらした。
徳川頼房は、水戸に就藩中に病となり、寛文元年(1661年)7月に水戸城にて死去し、徳川頼房の三男の徳川光圀が葬儀を儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に徳川頼房を葬った。 8月19日、徳川光圀は、幕府の上使を受け水戸藩28万石の2代藩主となる。
久慈郡の瑞竜山に水戸徳川家の墓地を造営した理由としては、那珂郡や久慈郡は、旧佐竹氏の本拠地であり取り締まりの意味もあったと考えられる。(水戸藩の領地は、関ヶ原の戦い以前は佐竹氏の領地であり、佐竹氏は関ヶ原の戦いで豊臣方に加勢したと考えられ出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。)
このころ、徳川光圀は、久慈郡に訪れており、水戸と久慈郡の途中に位置する那珂郡額田村(額田城・鹿嶋神社・八幡神社)にも訪れていた。