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額田古墳群

額田古墳群と額田部氏

古墳時代(今から1700年から1300年前)は各地の有力者が巨大な自らの墓『古墳』をたくさん造っていた。
古墳の形は系譜や時期により異なるが、その名称は形によって前方後方噴、前方後円墳、円墳、方噴等であり、出土品として埴輪や土器がある。古墳時代から平安時代までの素焼きの土器を総称して土師器と言われている。
額 田には天神小屋古墳、富士山古墳、森戸古墳、愛宕山古墳、大宮古墳、伊達古墳、新地古墳と7つの古墳がある。なかでも新地古墳は6基の古墳があり未発掘の ものもあり久慈川べりに繋がるように並んでおり土地柄の古さが地域を支えているようにもみえる。引接寺に額田部氏の墓がある。
大正9年に水郡線(太田線)の工事があり、3つの古墳を潰してしまった。
舟形石棺もあり、時の村長の菩提寺に改めて埋葬したという。村長は鈴木忠之助氏と甲州屋大澤源七氏との相談の結果だという。
日 本書紀。新編常陸国史に久慈郡額田村、後の那珂郡に茨城国造額田部氏の名が出てくる。祖先は額田湯坐連(ゆむらじ)と同祖とある。額田湯坐連は天皇の親族 で皇后候補や天皇のお子様に額田の名がみえる。額田王や推古天皇の幼名『ぬかだのひめみこと』や遣隋使の外交官額田部比羅夫に見られ、額田部氏を祀った社 寺が松江、奈良、三重にある。中央にその額田部氏の一族が増えるにつれ国造、県主、郡司として方々に散ることになった。岡崎の額田や那珂市額田の額田部氏 が考えられる。
風水学からいって中国思想の墳墓が魔除けの意味もあり権力者の北西や北方にあったことをすれば島や小島の方向に古墳があることをすれば権力者が景色のいい海中に求めた島々に古墳を造ったとしても不思議はない。
凝灰岩を刳り貫いて造られた舟形石棺で、棺身の全長2.65m、中央幅67cm、深さ14〜16cm。蓋はカマボコ型で内面を15cmほど刳り貫いている。内部は赤色顔料が塗布されている。