小野崎氏は北茨城の山尾氏(小野崎本家)から独立し額田城主となる。額田の城の後半170年は小野崎氏で日立地区とのかかわりが強い。家臣団は日立地区の町名、小学校名に関わる姓が多い。最後の家老大久保氏は多賀に、そして、助川氏、滑川氏、大森氏、瀬谷氏等額田周辺にいる。
佐竹氏のまえの太田城主は藤原太夫であるが小野に追われ小野崎氏を名乗る。茅根町の茅根氏も家臣であり、田渡町のバス停に内桶のながあるが田渡城主の内桶氏であり後に上河合に逃げ額田の重臣となる。額田城の有賀池の向こうに白鳥地区がある。ここに白鳥山梅照院があったが常陸太田に江戸期に移った。有が池にはくちょうが飛んでいてその名がついたと思われる。
金砂大祭礼の一本高足に額田の修験者 三光院、万法院が参加している。【金砂台祭礼志田諄一著】
額田にあった時宗常念寺は常陸太田東町浄光寺に併合された。阿弥陀仏が浄光寺にある。
額田城主は落城のおり、稲木の天徳寺に逃げ込む。小野崎照通である。【額田城陥落の記根本家所蔵】なお、天徳寺は光圀により水戸に移る。天徳寺後に久昌寺ができる。
金砂大祭礼の一本高足に額田の修験者 三光院、万法院が参加している。【金砂台祭礼志田諄一著】
額田にあった時宗常念寺は常陸太田東町浄光寺に併合された。阿弥陀仏が浄光寺にある。
額田城主は落城のおり、稲木の天徳寺に逃げ込む。小野崎照通である。【額田城陥落の記根本家所蔵】なお、天徳寺は光圀により水戸に移る。天徳寺後に久昌寺ができる。
酒出に蒼龍寺がある。鱗勝院と同じ曹洞宗のお寺である。千波湖のほとりにあり、その名をとって、太湖山蒼龍寺という。蒼龍寺は大きなカヤの木(写真)で有名。
水戸に見川町あり、水戸城の江戸氏の前の城主は馬場氏であり、馬場氏の5男が独立し見川郷の名をとり、見川を名乗る。江戸氏に追われ額田に逃れる。見川氏、箕川に江戸氏を意識し、改姓する。石神城に嫁いだ箕川氏の娘が額田ー石神の合戦において、実家との戦いを前に自害するも後々まで武士のつまの鑑と賞される。
水戸に見川町あり、水戸城の江戸氏の前の城主は馬場氏であり、馬場氏の5男が独立し見川郷の名をとり、見川を名乗る。江戸氏に追われ額田に逃れる。見川氏、箕川に江戸氏を意識し、改姓する。石神城に嫁いだ箕川氏の娘が額田ー石神の合戦において、実家との戦いを前に自害するも後々まで武士のつまの鑑と賞される。
小野崎氏の命により、高野の清水氏、びる遮那寺に大般若経の600巻の一つを寄贈する。一貫が五万字であるから毛筆で大変なものである。今も境内に石碑と石塔がある。
神埼地区に四堰がある。七つの堰の一つでなまってしじきという。四堰を境として上が額田領、下が石神領であり、下の網を張っての漁に鮭が上に上がらず当時たんぱく源であった鮭が取れなかった。これにいかった額田城主が石神に攻め入り戦になり、落城に追い込む。石神合戦記にきさいあり。後に豊臣秀吉の力を借り復活する。東海村には今でも住吉神社があるのはそのせいかもしれない。
額田藩は松平頼元にはじまり、1701年光圀の死後守山藩に2万石をそのまま引き継ぎ移された。現郡山しである。その後、明治維新の前、会津若松城の最後の城主松平容保に子がなく守山藩から養子を迎える。今の当主は額田藩の流れをくみ、2代将軍秀忠は伯父にあたり、尾張藩主、紀伊藩主も伯父にあたることは興味深い。紀伊和歌山の創建の淡島神社、熊野神社が額田にあるということは興味深い。
伊達政宗とい野崎昭通との密書の発見により、佐竹氏を挟撃することのはかりごとが企てられ、その時の約束事の通り、伊達政宗を頼って逃亡し救いをもとめた。
札幌市から来る人のために小野崎氏が落城する前に照通(昭通)の娘が重臣草野家に嫁ぐ。後に雪印乳業の創始者黒沢酉蔵は草野酉蔵が養子となり出世することになる。上宮寺bの草野家の墓地にその形跡がある。
札幌市から来る人のために小野崎氏が落城する前に照通(昭通)の娘が重臣草野家に嫁ぐ。後に雪印乳業の創始者黒沢酉蔵は草野酉蔵が養子となり出世することになる。上宮寺bの草野家の墓地にその形跡がある。