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2018年10月06日(土)
五台 講演会 悠久の那珂と命 講師 小田部一彦
9月4日、ふれせん五台で講演会が開催されました。講師小田部一彦による那珂市4回目の講演です。なか環境市民会議会長海野宏幸氏、額田城跡会長武藤博光氏からそれぞれの会の課題等の連絡事項の発表もありました。主催は那珂市元気一番歩く会(植田實会長)でした。講演内容次の通り。
本日はお忙しい中ご来館いただきましてありがとうございます。本日のテーマは悠久の那珂と命という大きなものを掲げました。あまりに大きなタイトルで何を語ればいいのかなとは思いましたが70歳を昨年迎え、健康診断をしたら、前立腺がんが見つかり、7月13日間、8月は15日間の入院を経て無事、生還しました。8月は2度、救急車で国立医療センターに運ばれ、集中治療室に3日腹膜炎をおこし点滴生活でした。救急車での消防の方の対応、病院での緊急体制による対応、その手際の良さに驚きを感じました。いつもは待たされて1日がかりの検査でしたがこの日のスピーディーな動きを実感したわけでレントゲン、CT,カテーテル検査を連続的に行い、腹水を即座に抜いていただいたわけで、改めて、命を支える仕事は大変だなと感じたわけです。医師の先生、看護師の方々に感謝の念が沸き、お陰様でと言う言葉をしみじみと感じたわけです。消防士さんを含め命を守る人の大切さを知ったわけです。
ところで今日はフレセンごだいでの講演で額田で2回、菅谷で1回、本日で那珂市で4回目です。毎回異なった話をしようとは思っているのですが重なる場合があればお許し願いたいと思います。古希を迎えて物忘れがひどくなりました。忘れ物を取りに来て、その場で忘れてしまい立ちすくむときがあります。まずは五台にきたのですから五台の歴史にちょっと触れてみます。江戸時代から水戸八景の一つ青柳の夜雨がありました。川沿いに柳が植えられ、那珂川の渡し船、向こう岸は水戸の城下が見える素晴らしい眺望でした。それに繋がる台地に五台はあります。五台村は1899年(明治22年)に東木倉村、西木倉村、後台村、中台村、豊喰新田(鳥喰村)の5地区が合併し五台村が誕生しました。明治の初期、明治15年頃、数々の清水原の入会地を巡る争いが国田村や飯田村を巻き込んでの訴訟合戦を展開したわけです。入会地は木々や草は大変な資源で村々の共同の入会地であったようです。現在でも五台は額田や瓜連と並んで高台になっており、住居を構えるのに古くから適したといえます。こうした地域には古代から古墳や遺跡、そして中世になると寺社仏閣があります。五台をはじめとして那珂川や久慈川が近く魚貝類がたくさん獲れ、蛋白源として食していました。江戸期や明治初期に寺社仏閣は額田や瓜連に併合され、廃寺となり移されましたので現在でも、額田の寺の檀家の人が多数います。明治3年には菅谷の浄運寺や五台の源長寺が廃寺となり、額田の引接寺に統合されました。浄土宗の寺は瓜連の常福寺との2か所です。
五台には根本正顕彰碑や清水洞の上公園がありますがそれぞれ顕彰会や保存会がありますので専門の分野にお任せし、今回は、久慈川物語をプリントいたしましたのでそれに従ってお話をさせてください。
久慈川物語
茨城県北部には久慈川が北西から東に流れ太平洋に注いでいる。江戸時代の流路変更により今の久慈川に近い形になったが、戦国時代は蛇行を繰り返し、多くの河岸段丘を作り出していたといえる。常陸風土記によると日本武尊が河岸段丘の一つを指さし、鯨の頭のようだといったことから久慈という言葉が出たほど、下流には河岸段丘は多かったという。その流れに魚貝類がたくさん生息していた。私の小学生であった60年前でさえ、ヒラメの子供やウナギの子供がたくさん獲れた。ウナギの子供を『かやんこ』と呼んだ。この久慈川流域には太古の昔から、食を求め、高台に居住していた。たくさんの古墳や遺跡から、石器や土器が発見されている所からも農耕をする前から、自然の食を求めて、集落を形成していく足取りがわかる。私の住む額田周辺には多くの古墳や遺跡がみられる。額田だけでも久慈川側に東から伊達古墳、新地古墳、大宮(額田神社)古墳、愛宕山(額田愛宕神社)古墳、森戸遺跡、天神小屋古墳、富士山古墳とある。額田部氏という部族がいた。現在引接寺に額田部氏の墓という墓石が建っている。明治31年、水戸・額田間に水戸鉄道が開通した際に3つの古墳を壊した。当時の村長たちはその霊を鎮めるため、引接寺に墓を建てたという。額田部氏は茨城の太古の昔どうだったか。新編常陸国史によると久慈郡に額田村あり【今那珂郡に属す】湯坐連と同祖なり、茲額田部の居る処なり、天津彦根命は茨城国造の祖なり、湯坐連と同祖なり、姓氏録には天津彦根命は額田部湯坐連の後裔とある。家系本末抄には額田村の項目で額田部連 茨城国造にして府を本村に建て国政を執るとあり。【佐川礼勝著 茨城キリスト教大学元教授志田諄一 解説】大和王権では推古天皇の幼名額田部皇女命や額田王の額田部氏に繋がる。額田の古墳群の西の木崎地区には、白河内古墳、対岸に島の梵天山古墳、小島の星神社の古墳、額田の下流に本米崎の海後古墳(三島神社)と地続きに形成されている。当時から久慈川は、今より海水と淡水のまじりあうポイントは上にあったと思われ、川のもの、海のもの、湖沼のものが食の糧となったといえる。額田という高台から久慈川を考察してみたい。額田周辺地域には古くからの歴史の足跡がある。地名や伝説や民話からもその悠久性が想定される。額田西地区の『ナカマチクジラ』の発見は人類の出現前としても、額田周辺を取り巻く、久慈川岸には海にちなんだ、地名が多い。東海村の亀下、那珂市本米崎地区の海後、対岸の常陸太田市の島、小島、磯部、川にちなむ地名は、木崎門部地区の下河原、常陸太田の谷河原、山田川と久慈川が交わる地点は川合(河合)と呼ばれ、現在は上の地区を上河合、下の地区を下河合という。少し下流になり、里川と久慈川の交わるところを落合というから地名も面白い。。民話があると前述したが、南酒出に北向き地蔵がある。この地蔵は対岸の小島から南酒出に昔、流れ着いたという。南向きに安置すると夜な夜な、故郷の小島を恋しく泣いたという。地域の人たちはそれを憐れみ、北向きに変え、今は『北向き地蔵』として安置されている。
橋のない久慈川の時代に、舟渡(ふなど)という地名があり、明治、大正にかけての最盛期は60世帯が今の幸久橋の下に住んでいた。天領が福島県の塙にあったとき、額田村と幸久村と共同で将軍様へのコメを運ぶのに仮橋が架けられた。舟渡から500メートル下でその時代は橋がないが私の小学生の時代は『やみ橋』として存在した。戦時中、暗闇に紛れてコメを運んだせいなのか、正式には岩船橋というのだそうだ。母方の曽祖父がその近くの宮司をしていたと聞かされてきた。その神社が岩船神社という。岩船地区があり、岩の上から船で渡った時代があったのかもしれない。
ところで、舟渡部落に住んだという昨年亡くなった冨岡銀二郎氏には色々と情報を得た。久慈川の対岸の河合地区に堤防が作られるまで、額田岸には多くの人たちが居住していた。いわゆる舟渡部落である。江戸幕府時代まで軍事上の考慮から重要な街道の河川への橋を架ける事が許されていなかった。水戸と福島の棚倉を結ぶ棚倉街道は、江戸後期には参勤交代の街道でもあった。奥州街道より経費が安くあがったという昔は幸久橋は無く、久慈川は舟で人や馬を渡した事実から部落名が舟渡部落とつけられたという。水戸から額田の台地を通りすぎるのにその前に有賀池が横たわっていた。江戸時代にこの千波湖と同じくらいの有ケ池があるために現在の坂下町で東西に棚倉街道は迂回し、西側は高岡から鱗勝院の西側へ抜け額田北郷に向かい舟渡から上河合へ、東は向山から米崎を通って有が池の東を抜け、額田東郷に上がり、馬坂を下り、岩船の下河合に抜けた。馬坂の上の台地に伊達という地名がある。地名の起こりはわかっていない。磯部田んぼで合流し、常陸太田の東町に繋がり、町屋に向かう。今のように棚倉街道は直線でなく額田河合間は2か所で久慈川を渡った。天保六年の額田軒別帳には旅人の為舟越を業として営んでいた船頭が三軒あったという。通行の人馬は洪水ともなると川留めとなり、舟は出せず旅人は宿場に泊まり日を過ごした。大洪水ともなると、太田迄一面水浸しであったという。今のように対岸に堤防がなかったから河合、磯部地区まで川の水はあふれたという。明治維新後は橋が架けられ、橋銭を払って渡るようになって守番小屋が設けられ、守番を桑原雪之助氏が勤めた。後に雪之助氏は舟渡部落の村会議員であったと父に聞いた。明治31年、水戸・額田間に水戸鉄道が開通、久慈川停車場もこの地に設けられた。汽車の登場は住民を驚かした。当時の交通機関としてはトテー馬車と人力車、貨物は駄馬、川は舟か筏しかなかったのである。本田廻漕店や森山・宇野両氏の運送業その他の店が開かれ、居住者も増加し乗客や鉄橋架設工事の従業者などで、額田・河合は賑わったが鉄橋工事完成と同時に停車場は廃止され、河合駅が設けられた。久慈郡大子、福島の東館地方の林産地から久慈川を筏で流して額田で製材し、久慈川駅から東京方面に輸送したので製板業も盛んになり生産額も増加したのである。町内の本田宅に現在でもその当時の写真が残っている。東館の片野豊作氏が川岸額田製板処を設立して生産三万石の大会社が出現したのでもある。工員は50余名であったから、戸数30戸の船渡部落は更に賑わいを見せた。その後、片野氏は川嶋製板所に権利を譲渡し、郷里に帰られたという。川嶋製挽(せいばん)工場と高倉製挽工場は蒸気による機械化を図り、その工場は見物人の対象ともなったのである。当時、水戸市から職工頭として福田某氏が来られ、40余人の工員を指揮して筏の解体、製板の結束、運搬・雑役を行っていた。製材されたものは河合駅に運ばれ、東京方面に輸送された。筏が東館から流され、額田岸から河合岸で筏に継がれ、渡される迄に集結したというから売買取引の客や商人で賑わい、遠くは信州や上州からの者も来たという。好景気に乗じて建具屋・商店も集まり、長屋も三軒できて、一躍60の世帯で船渡部落は賑わいを見せた。川向の河合地区の舟屋、広木屋・扇屋などの料理旅籠屋は、毎晩の客で歌や三味線の音で大景気、燈火は川の水面に映って、その夜の賑わいに部落民の心も踊ったという。当時の歌、「久慈郡と那珂の境のあの久慈川を下る筏はありや多はれど淵や浅瀬に悩まされ、明日は又ちいちい河合(可愛い)額田につきかねる、ちょいちょいちょいなっちょい。」水郡線の開通に伴い、大子・東館からの筏の久慈川下りも無くなり、製板工場も成り立たず、部落民は転業の止むなきにいたった。村も水害毎の救済対策経費減からも転居を奨励したので、額田宿へ転住し、住宅地は姿を消した。新幸久橋の建設に伴う土地買収で畑地と思っていたら、謄本上、宅地だったと驚く住民もいるに至った舟渡部落の変遷である。小学生の頃、生きていれば百歳になる父・久彦は当時を振り返って川岸に近い所に天野家があり、次に中原政一郎氏と並んで建っていた軒並みがあったという。ちなみに天野家は浜松5万石の流れをくみ、2代将軍秀忠の逆鱗に触れ、改易となったが光圀に拾われ、300石で仕えた。小学生の時、町内の天野家に上がると長い槍と光圀からの手紙のようなものが床の間に飾ってあった。NHKの大河ドラマの『お江』の江姫を支える家臣に天野景康が出てくるが引接寺にある墓石には代々名前に景の字がつけられている。私の知る60年前の当主は天野景友氏であった。中原家は今では額田に20軒はあるが久慈川上流の大子頃藤から移ってきたという。舟渡の入り口に土橋があり、溜池が二つあって泥水の中を泳いだ記憶がある。「土橋近くに額田北郷の理容室関さんがあったんだよ。当時は木工業をしていた。」銀二郎氏の言葉も懐かしくなってしまった。土橋の下に池があり、鮒や鰻やタナゴが獲れ、久慈川に近い地元の人たちは、タナゴの事を「おしゃらくブナ」と言ったのは昔の懐かしい記憶でもある。後に転住した人たちが木工業を広めた。日立一高の元校長・宮崎明氏が那珂町史の制作期の小冊子で額田の木工業について述べている。中原仁蔵氏中心に旧古宿町全域に木工は及んだ。障子・雨戸・風呂・神棚・棺に至る迄、多くの人達が関わってきた木工の一大生産地であったと。那珂湊の大火災、日立市の艦砲射撃による焼け野原、水戸の全滅と戦後の復興に欠かせない木工業でもあったのである。当時は運送に車が無い時代、「馬車ひき」と言われる人達も活躍した。町内にも何人かの人が馬車引きをして、それぞれの家に馬小屋があった。その光景を私は小学生の頃、60年前に見ている。額田が活性化した時代でもあった。ここに舟渡部落を記すにあたり、種々教えて頂いた冨岡銀二郎氏に感謝したい。舟渡部落は対岸地区の河合に久慈川の堤防ができ、洪水に悩まされ、額田村の北郷地区に移住の奨励があり、高台に上がった。麦畑の街道筋は家々が建ち、今は軒を連ねているが、60年前に最後の1軒が無くなって、舟渡地区から住居は消えた。最後の1軒は覚えている。明治後期に久慈川に橋が架けられた。今存在する幸久橋と命名され現在に至っているが、何と命名者は野口雨情の伯父野口勝一氏である。勝一氏は明治6年にできた額田小学校の2代目校長であったが、1年後、地元北茨城に戻り、衆議院議員となり活躍した。野口雨情はとうりゃんせと波浮の港が有名ですね。
「波浮の港」(はぶのみなと)は1923年に野口雨情が発表した詞に、中山晋平が作曲した歌曲である。
レコードは1928年5月に佐藤千夜子が日本ビクターから、その2ヶ月後の7月には藤原義江が同じくビクターからレコードとして発売しています。
昭和初期の伊豆大島は、観光とは無縁の離島であった。島の南東部にある波浮港村(はぶみなとむら)は、島の中心部の新島村(1940年に新島村が元村と改称するまで大島にあるのが新島村で、新島にあるのは新島本村だった)からも三原山を挟んで反対側にあるわびしい漁村であった。
当時は東京からの船便もなく、雨情は現地には全く行かず、地図さえも確かめずに詩を書いた。このため、歌詞が必ずしも現地の風景に忠実でない部分がある。東を海に面し西側に山を背負って全く夕日が見えない波浮港に「夕焼け」を見せる点や、雨情の故郷の磯原にはたくさんいるものの、大島には全くいない海鵜が登場する点がそれにあたる.(長良川の鵜飼いに使う海鵜も、磯原に近い茨城県十王町産である)。
磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら
ところで、北海道で東日本大震災に続き、大地震が起き、多数の人が犠牲になった。NHKのある番組で大災害の400年周期説を唱えていたのを聞いてから興味をもって1年1年を注目している。気象庁始まって以来の台風とか降水量、高温とか毎年のように記録が塗り替えられる。その周期は西暦500年、900年、1300年、1700年代とくると次は2100年である。1700年代を追ってみると、1707年に南海地震が起き、相次いで富士山が噴火し、浅間山が1783年に噴火し、数々の大洪水が起きてきた。この洪水を人々は『おおがまし』といってきた。私の小学生時代まで、那珂、常陸太田地方でこの言葉は使われてきた。大川増し、大洪水のことである。そのことを金砂郷の出身の仙台にいる同窓生も『おおがまし』と大洪水を呼んでいたと。1700年の『おおがまし』の記録を国土交通省のHPで見つけた。久慈川でも、1700年は1704、26、30,54,57,60,79,80,82,85,86年と大洪水の歴史がある。1786年は額田大池の堤が切れ、本米崎の松原まで上がったというから大災害であった。額田大池は有が池のことで昭和18年に干拓され、水田になっている久慈川に堤防ができ、決壊した記録はないが、今後、静かな久慈川が暴れるとも限らない。改めて、地名が海、川、谷、沼とかの付く地名は防災、減災の意味からも2100年に向け、注意を払う必要があろう
参考文献 常陸太田市史、那珂町史、国土交通省HP、家系本末抄、冨岡銀次郎氏メモ
最後に命の大切さを話し、今日の講演を閉じさせていただきます。わたしたちは父と母との出会いにより誕生しました。精子と卵子の結合により、生まれてきたわけですが。私は兄弟は4人ですので4度の結合でしかなかった。多くが兄弟になるなるはずの精子は死んでしまったわけです。生を受けてきた私は億という兄弟の代表として誕生いたしました。父母が二人。祖父母が4人、曽祖父ぼが8人、16人と数えていくと平安時代は1億だとか、人類が誕生時には数えきれない数字にのぼります。ご先祖様がいなければ私の存在はありません。先祖様のおかげでいます。お蔭さまという言葉は重要なる意味を持ちます。こうしてみると人類皆兄弟ですね。明治天皇がこんな歌を詠んでいます。『四方の海 みな同胞と思う世に など波風の立ちさわぐらん』(よものうみ みなはらからとおもうよに などなみかぜのたちさわぐらん) 戦争や災害のない世の中を願いたいものです。
https://wwww.nukada.jp のホームページをご覧ください。
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ところで今日はフレセンごだいでの講演で額田で2回、菅谷で1回、本日で那珂市で4回目です。毎回異なった話をしようとは思っているのですが重なる場合があればお許し願いたいと思います。古希を迎えて物忘れがひどくなりました。忘れ物を取りに来て、その場で忘れてしまい立ちすくむときがあります。まずは五台にきたのですから五台の歴史にちょっと触れてみます。江戸時代から水戸八景の一つ青柳の夜雨がありました。川沿いに柳が植えられ、那珂川の渡し船、向こう岸は水戸の城下が見える素晴らしい眺望でした。それに繋がる台地に五台はあります。五台村は1899年(明治22年)に東木倉村、西木倉村、後台村、中台村、豊喰新田(鳥喰村)の5地区が合併し五台村が誕生しました。明治の初期、明治15年頃、数々の清水原の入会地を巡る争いが国田村や飯田村を巻き込んでの訴訟合戦を展開したわけです。入会地は木々や草は大変な資源で村々の共同の入会地であったようです。現在でも五台は額田や瓜連と並んで高台になっており、住居を構えるのに古くから適したといえます。こうした地域には古代から古墳や遺跡、そして中世になると寺社仏閣があります。五台をはじめとして那珂川や久慈川が近く魚貝類がたくさん獲れ、蛋白源として食していました。江戸期や明治初期に寺社仏閣は額田や瓜連に併合され、廃寺となり移されましたので現在でも、額田の寺の檀家の人が多数います。明治3年には菅谷の浄運寺や五台の源長寺が廃寺となり、額田の引接寺に統合されました。浄土宗の寺は瓜連の常福寺との2か所です。
五台には根本正顕彰碑や清水洞の上公園がありますがそれぞれ顕彰会や保存会がありますので専門の分野にお任せし、今回は、久慈川物語をプリントいたしましたのでそれに従ってお話をさせてください。
久慈川物語
茨城県北部には久慈川が北西から東に流れ太平洋に注いでいる。江戸時代の流路変更により今の久慈川に近い形になったが、戦国時代は蛇行を繰り返し、多くの河岸段丘を作り出していたといえる。常陸風土記によると日本武尊が河岸段丘の一つを指さし、鯨の頭のようだといったことから久慈という言葉が出たほど、下流には河岸段丘は多かったという。その流れに魚貝類がたくさん生息していた。私の小学生であった60年前でさえ、ヒラメの子供やウナギの子供がたくさん獲れた。ウナギの子供を『かやんこ』と呼んだ。この久慈川流域には太古の昔から、食を求め、高台に居住していた。たくさんの古墳や遺跡から、石器や土器が発見されている所からも農耕をする前から、自然の食を求めて、集落を形成していく足取りがわかる。私の住む額田周辺には多くの古墳や遺跡がみられる。額田だけでも久慈川側に東から伊達古墳、新地古墳、大宮(額田神社)古墳、愛宕山(額田愛宕神社)古墳、森戸遺跡、天神小屋古墳、富士山古墳とある。額田部氏という部族がいた。現在引接寺に額田部氏の墓という墓石が建っている。明治31年、水戸・額田間に水戸鉄道が開通した際に3つの古墳を壊した。当時の村長たちはその霊を鎮めるため、引接寺に墓を建てたという。額田部氏は茨城の太古の昔どうだったか。新編常陸国史によると久慈郡に額田村あり【今那珂郡に属す】湯坐連と同祖なり、茲額田部の居る処なり、天津彦根命は茨城国造の祖なり、湯坐連と同祖なり、姓氏録には天津彦根命は額田部湯坐連の後裔とある。家系本末抄には額田村の項目で額田部連 茨城国造にして府を本村に建て国政を執るとあり。【佐川礼勝著 茨城キリスト教大学元教授志田諄一 解説】大和王権では推古天皇の幼名額田部皇女命や額田王の額田部氏に繋がる。額田の古墳群の西の木崎地区には、白河内古墳、対岸に島の梵天山古墳、小島の星神社の古墳、額田の下流に本米崎の海後古墳(三島神社)と地続きに形成されている。当時から久慈川は、今より海水と淡水のまじりあうポイントは上にあったと思われ、川のもの、海のもの、湖沼のものが食の糧となったといえる。額田という高台から久慈川を考察してみたい。額田周辺地域には古くからの歴史の足跡がある。地名や伝説や民話からもその悠久性が想定される。額田西地区の『ナカマチクジラ』の発見は人類の出現前としても、額田周辺を取り巻く、久慈川岸には海にちなんだ、地名が多い。東海村の亀下、那珂市本米崎地区の海後、対岸の常陸太田市の島、小島、磯部、川にちなむ地名は、木崎門部地区の下河原、常陸太田の谷河原、山田川と久慈川が交わる地点は川合(河合)と呼ばれ、現在は上の地区を上河合、下の地区を下河合という。少し下流になり、里川と久慈川の交わるところを落合というから地名も面白い。。民話があると前述したが、南酒出に北向き地蔵がある。この地蔵は対岸の小島から南酒出に昔、流れ着いたという。南向きに安置すると夜な夜な、故郷の小島を恋しく泣いたという。地域の人たちはそれを憐れみ、北向きに変え、今は『北向き地蔵』として安置されている。
橋のない久慈川の時代に、舟渡(ふなど)という地名があり、明治、大正にかけての最盛期は60世帯が今の幸久橋の下に住んでいた。天領が福島県の塙にあったとき、額田村と幸久村と共同で将軍様へのコメを運ぶのに仮橋が架けられた。舟渡から500メートル下でその時代は橋がないが私の小学生の時代は『やみ橋』として存在した。戦時中、暗闇に紛れてコメを運んだせいなのか、正式には岩船橋というのだそうだ。母方の曽祖父がその近くの宮司をしていたと聞かされてきた。その神社が岩船神社という。岩船地区があり、岩の上から船で渡った時代があったのかもしれない。
ところで、舟渡部落に住んだという昨年亡くなった冨岡銀二郎氏には色々と情報を得た。久慈川の対岸の河合地区に堤防が作られるまで、額田岸には多くの人たちが居住していた。いわゆる舟渡部落である。江戸幕府時代まで軍事上の考慮から重要な街道の河川への橋を架ける事が許されていなかった。水戸と福島の棚倉を結ぶ棚倉街道は、江戸後期には参勤交代の街道でもあった。奥州街道より経費が安くあがったという昔は幸久橋は無く、久慈川は舟で人や馬を渡した事実から部落名が舟渡部落とつけられたという。水戸から額田の台地を通りすぎるのにその前に有賀池が横たわっていた。江戸時代にこの千波湖と同じくらいの有ケ池があるために現在の坂下町で東西に棚倉街道は迂回し、西側は高岡から鱗勝院の西側へ抜け額田北郷に向かい舟渡から上河合へ、東は向山から米崎を通って有が池の東を抜け、額田東郷に上がり、馬坂を下り、岩船の下河合に抜けた。馬坂の上の台地に伊達という地名がある。地名の起こりはわかっていない。磯部田んぼで合流し、常陸太田の東町に繋がり、町屋に向かう。今のように棚倉街道は直線でなく額田河合間は2か所で久慈川を渡った。天保六年の額田軒別帳には旅人の為舟越を業として営んでいた船頭が三軒あったという。通行の人馬は洪水ともなると川留めとなり、舟は出せず旅人は宿場に泊まり日を過ごした。大洪水ともなると、太田迄一面水浸しであったという。今のように対岸に堤防がなかったから河合、磯部地区まで川の水はあふれたという。明治維新後は橋が架けられ、橋銭を払って渡るようになって守番小屋が設けられ、守番を桑原雪之助氏が勤めた。後に雪之助氏は舟渡部落の村会議員であったと父に聞いた。明治31年、水戸・額田間に水戸鉄道が開通、久慈川停車場もこの地に設けられた。汽車の登場は住民を驚かした。当時の交通機関としてはトテー馬車と人力車、貨物は駄馬、川は舟か筏しかなかったのである。本田廻漕店や森山・宇野両氏の運送業その他の店が開かれ、居住者も増加し乗客や鉄橋架設工事の従業者などで、額田・河合は賑わったが鉄橋工事完成と同時に停車場は廃止され、河合駅が設けられた。久慈郡大子、福島の東館地方の林産地から久慈川を筏で流して額田で製材し、久慈川駅から東京方面に輸送したので製板業も盛んになり生産額も増加したのである。町内の本田宅に現在でもその当時の写真が残っている。東館の片野豊作氏が川岸額田製板処を設立して生産三万石の大会社が出現したのでもある。工員は50余名であったから、戸数30戸の船渡部落は更に賑わいを見せた。その後、片野氏は川嶋製板所に権利を譲渡し、郷里に帰られたという。川嶋製挽(せいばん)工場と高倉製挽工場は蒸気による機械化を図り、その工場は見物人の対象ともなったのである。当時、水戸市から職工頭として福田某氏が来られ、40余人の工員を指揮して筏の解体、製板の結束、運搬・雑役を行っていた。製材されたものは河合駅に運ばれ、東京方面に輸送された。筏が東館から流され、額田岸から河合岸で筏に継がれ、渡される迄に集結したというから売買取引の客や商人で賑わい、遠くは信州や上州からの者も来たという。好景気に乗じて建具屋・商店も集まり、長屋も三軒できて、一躍60の世帯で船渡部落は賑わいを見せた。川向の河合地区の舟屋、広木屋・扇屋などの料理旅籠屋は、毎晩の客で歌や三味線の音で大景気、燈火は川の水面に映って、その夜の賑わいに部落民の心も踊ったという。当時の歌、「久慈郡と那珂の境のあの久慈川を下る筏はありや多はれど淵や浅瀬に悩まされ、明日は又ちいちい河合(可愛い)額田につきかねる、ちょいちょいちょいなっちょい。」水郡線の開通に伴い、大子・東館からの筏の久慈川下りも無くなり、製板工場も成り立たず、部落民は転業の止むなきにいたった。村も水害毎の救済対策経費減からも転居を奨励したので、額田宿へ転住し、住宅地は姿を消した。新幸久橋の建設に伴う土地買収で畑地と思っていたら、謄本上、宅地だったと驚く住民もいるに至った舟渡部落の変遷である。小学生の頃、生きていれば百歳になる父・久彦は当時を振り返って川岸に近い所に天野家があり、次に中原政一郎氏と並んで建っていた軒並みがあったという。ちなみに天野家は浜松5万石の流れをくみ、2代将軍秀忠の逆鱗に触れ、改易となったが光圀に拾われ、300石で仕えた。小学生の時、町内の天野家に上がると長い槍と光圀からの手紙のようなものが床の間に飾ってあった。NHKの大河ドラマの『お江』の江姫を支える家臣に天野景康が出てくるが引接寺にある墓石には代々名前に景の字がつけられている。私の知る60年前の当主は天野景友氏であった。中原家は今では額田に20軒はあるが久慈川上流の大子頃藤から移ってきたという。舟渡の入り口に土橋があり、溜池が二つあって泥水の中を泳いだ記憶がある。「土橋近くに額田北郷の理容室関さんがあったんだよ。当時は木工業をしていた。」銀二郎氏の言葉も懐かしくなってしまった。土橋の下に池があり、鮒や鰻やタナゴが獲れ、久慈川に近い地元の人たちは、タナゴの事を「おしゃらくブナ」と言ったのは昔の懐かしい記憶でもある。後に転住した人たちが木工業を広めた。日立一高の元校長・宮崎明氏が那珂町史の制作期の小冊子で額田の木工業について述べている。中原仁蔵氏中心に旧古宿町全域に木工は及んだ。障子・雨戸・風呂・神棚・棺に至る迄、多くの人達が関わってきた木工の一大生産地であったと。那珂湊の大火災、日立市の艦砲射撃による焼け野原、水戸の全滅と戦後の復興に欠かせない木工業でもあったのである。当時は運送に車が無い時代、「馬車ひき」と言われる人達も活躍した。町内にも何人かの人が馬車引きをして、それぞれの家に馬小屋があった。その光景を私は小学生の頃、60年前に見ている。額田が活性化した時代でもあった。ここに舟渡部落を記すにあたり、種々教えて頂いた冨岡銀二郎氏に感謝したい。舟渡部落は対岸地区の河合に久慈川の堤防ができ、洪水に悩まされ、額田村の北郷地区に移住の奨励があり、高台に上がった。麦畑の街道筋は家々が建ち、今は軒を連ねているが、60年前に最後の1軒が無くなって、舟渡地区から住居は消えた。最後の1軒は覚えている。明治後期に久慈川に橋が架けられた。今存在する幸久橋と命名され現在に至っているが、何と命名者は野口雨情の伯父野口勝一氏である。勝一氏は明治6年にできた額田小学校の2代目校長であったが、1年後、地元北茨城に戻り、衆議院議員となり活躍した。野口雨情はとうりゃんせと波浮の港が有名ですね。
レコードは1928年5月に佐藤千夜子が日本ビクターから、その2ヶ月後の7月には藤原義江が同じくビクターからレコードとして発売しています。
昭和初期の伊豆大島は、観光とは無縁の離島であった。島の南東部にある波浮港村(はぶみなとむら)は、島の中心部の新島村(1940年に新島村が元村と改称するまで大島にあるのが新島村で、新島にあるのは新島本村だった)からも三原山を挟んで反対側にあるわびしい漁村であった。
当時は東京からの船便もなく、雨情は現地には全く行かず、地図さえも確かめずに詩を書いた。このため、歌詞が必ずしも現地の風景に忠実でない部分がある。東を海に面し西側に山を背負って全く夕日が見えない波浮港に「夕焼け」を見せる点や、雨情の故郷の磯原にはたくさんいるものの、大島には全くいない海鵜が登場する点がそれにあたる.(長良川の鵜飼いに使う海鵜も、磯原に近い茨城県十王町産である)。
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら
ところで、北海道で東日本大震災に続き、大地震が起き、多数の人が犠牲になった。NHKのある番組で大災害の400年周期説を唱えていたのを聞いてから興味をもって1年1年を注目している。気象庁始まって以来の台風とか降水量、高温とか毎年のように記録が塗り替えられる。その周期は西暦500年、900年、1300年、1700年代とくると次は2100年である。1700年代を追ってみると、1707年に南海地震が起き、相次いで富士山が噴火し、浅間山が1783年に噴火し、数々の大洪水が起きてきた。この洪水を人々は『おおがまし』といってきた。私の小学生時代まで、那珂、常陸太田地方でこの言葉は使われてきた。大川増し、大洪水のことである。そのことを金砂郷の出身の仙台にいる同窓生も『おおがまし』と大洪水を呼んでいたと。1700年の『おおがまし』の記録を国土交通省のHPで見つけた。久慈川でも、1700年は1704、26、30,54,57,60,79,80,82,85,86年と大洪水の歴史がある。1786年は額田大池の堤が切れ、本米崎の松原まで上がったというから大災害であった。額田大池は有が池のことで昭和18年に干拓され、水田になっている久慈川に堤防ができ、決壊した記録はないが、今後、静かな久慈川が暴れるとも限らない。改めて、地名が海、川、谷、沼とかの付く地名は防災、減災の意味からも2100年に向け、注意を払う必要があろう
参考文献 常陸太田市史、那珂町史、国土交通省HP、家系本末抄、冨岡銀次郎氏メモ
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