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2019年07月15日(月)
明治は遠くなりにけり 明治の揺籃期の教育
ル 小学校揺籃期と私たちの小学校の頃
明治5年学制が発付され、教育の理念と制度の上で大きな転換をもたらした。文盲率からしても読み書きができるのが武士や有力商人の子弟に限られた、藩校や寺子屋が国民全体が一定年齢が来れば就学できるという制度は画期的でもあった。ただすんなり受け入れられなかったことも事実であった。小学校へ入学できる年齢は家族にとっては労働力の一部であったのである。それが一定時間、拘束されることを農村等では喜ばなかった。当初、就学率も30パーセント弱であったのが明治35年には90パーセントになったという。20歳の徴兵検査も明治39年には3パーセントは自分の名前が書けなかったという。明治政府は学制を当初、学問をして出世するということ前面に出し、学問は身を立てる立身出の手段という考えを打ち出した。長くそのことは婦女子には学問はいらないという考えができてしまったことも事実である。江戸時代の儒教的学問いわゆる封建教学からの学問概念の転回でもある新しい制度の導入である。初期においては徳育教育ではなく、知育教育で読み書き算術、地理、理科というように自然科学系統重視のカリキュラムがくまれた。また、体力の増進から体操の時間が設けられた。教科書として欧米の啓蒙思想の翻訳や著述が反映され、福沢諭吉の著書『世界国尽』が用いられた。この中で福沢は世界の情勢をわかりやすく七五調で書かれ、暗唱しやすい文章が用いられた。その当時の小学生は世界は平面であると思ってたものが地球は丸いことを知ったり、日食、月食は太陽や月の病気だと思っていたものが法則を知ったという。それまで続いた迷信を打ち砕く役割を果たした。福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之、森有礼等の知識人が国民教育に影響を与えた。のちに森有礼は文部大臣として有名。諭吉の『学問のすすめ』はいうに及ばずでもあるが。啓蒙思想の普及に諭吉は蘭学塾を開くがこれを英学塾に変え、慶應義塾と名を改める。内閣総理大臣を辞した大隈重信が東京専門学校(早稲田大学)を創り、岸本辰雄は明治法律学校(明治大学)そして東京法学社(法政大学)、専修学校、神宮皇学院(国学院)関西法律学校、同志社等相次いで創立される。このような中で額田小学校が学制の発付の翌年開校する。従来は中国に学んだ学問が欧米に学ぶ学問が導入されたのである。農家の多い額田にとって前述のように抵抗があったに違いない。私たちの小学生時代でさえ、7日間の農繁休暇が田植え、稲刈りの時期にはあったのであるから。小学生も田植えや子守などをして労働力の手助けとなったのである。そして2代目校長に野口雨情の叔父野口勝一がなる。明治23年教育勅語が発付され国民の教育方針の柱になった。明治26年には『君が代』が文部省から祝祭日の歌として歌うことが定められた欧米の啓蒙思想と天皇制のバランスをとったといわれている。大正生まれの亡き父母は諳んじていたからその当時の徹底ぶりがうかがわれた。学校に奉安殿ができる。天皇皇后陛下の写真が飾られ、それを登下校黙礼したと言うのを父母から聞いた。私たちの知らない時代の小学校の生活である。戦争に負け駐留軍が入ってきた。奉安殿の焼却の令が出たが亡き祖父はそれを責任の名において隠した。剛毅な人で米軍から処罰されるのを覚悟しながらの行為であるが時の校長を慮ると寒気がする。校長と祖父の他に誰も知らない秘密でもあった。太平洋戦争のころ、いつも小学生は出征兵士を駅まで見送るのが仕事だったなんていう先輩がいた。揺籃期からいろいろの歴史を繰り返しながら戦後の私たちに繋がってきた。当時は教壇があり、篠のようなものを持っていた。『雀の学校のせんせいは鞭をふりふりちーばっぱ』だったのである。篠のような物は時には叱責のための道具であった。自分が悪いと思うから黙ってそれを受け止めた。家には先生に叱られたとは言えない。それにも増して鉄拳の雨が降ったからであった。それが成長に繋がらないという人もいるが、叱られないように頑張ろうと思うから成長に繋がっていた。我慢ということを覚え、成績も向上した。祖父も父も、悪いことをすれば容赦なく手が飛んできた。その悪いという観念が違っていたが。食事の時に肘が食卓に触ったり、障子を開けっ放しにしたり、玄関の敷居を跨がずに上ってしまったり、下駄を擦り引いて歩いたりであった。今の私であったら理不尽であったものが日常のこととして受け止めていた。祖父としても父としても私を一人前の人間、いやリーダーとして育てようとしていたのが言葉の節々から読み取れた。泣いていると母はいつもフォローしてくれた。常々いう事は「社会のために役に立つ人間になれ。」であった。二宮金次郎や野口英世の話をされた。『温厚篤実』という言葉をつかった。小学生として。難しくて理解し難がったが。、何でも母も祖母にそう言われて育ったと話していたが。いつも母は観音様のような母であった。慈母観音を見ると母をだぶらせてしまう。『毘盧遮那の観音の横顔 母に似て』である。母は幼いながらも子供の頃から当時の祖父母を尊敬したように思える。母方の祖父は太中第1回卒であり、東京の物理学校(東工大)へ行った。祖母は佐野高女第1回卒であったという。これものちになってその意味がわかるので幼い私にはわからなかった。祖父が神奈川県庁を辞し、明治製菓の顧問をしていてサイコロ飴を土産に持ってきてくれる単なるお爺さんにすぎなかったのである。
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明治5年学制が発付され、教育の理念と制度の上で大きな転換をもたらした。文盲率からしても読み書きができるのが武士や有力商人の子弟に限られた、藩校や寺子屋が国民全体が一定年齢が来れば就学できるという制度は画期的でもあった。ただすんなり受け入れられなかったことも事実であった。小学校へ入学できる年齢は家族にとっては労働力の一部であったのである。それが一定時間、拘束されることを農村等では喜ばなかった。当初、就学率も30パーセント弱であったのが明治35年には90パーセントになったという。20歳の徴兵検査も明治39年には3パーセントは自分の名前が書けなかったという。明治政府は学制を当初、学問をして出世するということ前面に出し、学問は身を立てる立身出の手段という考えを打ち出した。長くそのことは婦女子には学問はいらないという考えができてしまったことも事実である。江戸時代の儒教的学問いわゆる封建教学からの学問概念の転回でもある新しい制度の導入である。初期においては徳育教育ではなく、知育教育で読み書き算術、地理、理科というように自然科学系統重視のカリキュラムがくまれた。また、体力の増進から体操の時間が設けられた。教科書として欧米の啓蒙思想の翻訳や著述が反映され、福沢諭吉の著書『世界国尽』が用いられた。この中で福沢は世界の情勢をわかりやすく七五調で書かれ、暗唱しやすい文章が用いられた。その当時の小学生は世界は平面であると思ってたものが地球は丸いことを知ったり、日食、月食は太陽や月の病気だと思っていたものが法則を知ったという。それまで続いた迷信を打ち砕く役割を果たした。福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之、森有礼等の知識人が国民教育に影響を与えた。のちに森有礼は文部大臣として有名。諭吉の『学問のすすめ』はいうに及ばずでもあるが。啓蒙思想の普及に諭吉は蘭学塾を開くがこれを英学塾に変え、慶應義塾と名を改める。内閣総理大臣を辞した大隈重信が東京専門学校(早稲田大学)を創り、岸本辰雄は明治法律学校(明治大学)そして東京法学社(法政大学)、専修学校、神宮皇学院(国学院)関西法律学校、同志社等相次いで創立される。このような中で額田小学校が学制の発付の翌年開校する。従来は中国に学んだ学問が欧米に学ぶ学問が導入されたのである。農家の多い額田にとって前述のように抵抗があったに違いない。私たちの小学生時代でさえ、7日間の農繁休暇が田植え、稲刈りの時期にはあったのであるから。小学生も田植えや子守などをして労働力の手助けとなったのである。そして2代目校長に野口雨情の叔父野口勝一がなる。明治23年教育勅語が発付され国民の教育方針の柱になった。明治26年には『君が代』が文部省から祝祭日の歌として歌うことが定められた欧米の啓蒙思想と天皇制のバランスをとったといわれている。大正生まれの亡き父母は諳んじていたからその当時の徹底ぶりがうかがわれた。学校に奉安殿ができる。天皇皇后陛下の写真が飾られ、それを登下校黙礼したと言うのを父母から聞いた。私たちの知らない時代の小学校の生活である。戦争に負け駐留軍が入ってきた。奉安殿の焼却の令が出たが亡き祖父はそれを責任の名において隠した。剛毅な人で米軍から処罰されるのを覚悟しながらの行為であるが時の校長を慮ると寒気がする。校長と祖父の他に誰も知らない秘密でもあった。太平洋戦争のころ、いつも小学生は出征兵士を駅まで見送るのが仕事だったなんていう先輩がいた。揺籃期からいろいろの歴史を繰り返しながら戦後の私たちに繋がってきた。当時は教壇があり、篠のようなものを持っていた。『雀の学校のせんせいは鞭をふりふりちーばっぱ』だったのである。篠のような物は時には叱責のための道具であった。自分が悪いと思うから黙ってそれを受け止めた。家には先生に叱られたとは言えない。それにも増して鉄拳の雨が降ったからであった。それが成長に繋がらないという人もいるが、叱られないように頑張ろうと思うから成長に繋がっていた。我慢ということを覚え、成績も向上した。祖父も父も、悪いことをすれば容赦なく手が飛んできた。その悪いという観念が違っていたが。食事の時に肘が食卓に触ったり、障子を開けっ放しにしたり、玄関の敷居を跨がずに上ってしまったり、下駄を擦り引いて歩いたりであった。今の私であったら理不尽であったものが日常のこととして受け止めていた。祖父としても父としても私を一人前の人間、いやリーダーとして育てようとしていたのが言葉の節々から読み取れた。泣いていると母はいつもフォローしてくれた。常々いう事は「社会のために役に立つ人間になれ。」であった。二宮金次郎や野口英世の話をされた。『温厚篤実』という言葉をつかった。小学生として。難しくて理解し難がったが。、何でも母も祖母にそう言われて育ったと話していたが。いつも母は観音様のような母であった。慈母観音を見ると母をだぶらせてしまう。『毘盧遮那の観音の横顔 母に似て』である。母は幼いながらも子供の頃から当時の祖父母を尊敬したように思える。母方の祖父は太中第1回卒であり、東京の物理学校(東工大)へ行った。祖母は佐野高女第1回卒であったという。これものちになってその意味がわかるので幼い私にはわからなかった。祖父が神奈川県庁を辞し、明治製菓の顧問をしていてサイコロ飴を土産に持ってきてくれる単なるお爺さんにすぎなかったのである。