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2016年03月20日(日)
那珂市のゆかり似の先人 根本正について
那珂市に昨年名誉市民になった根本正がいる。明治初期から大正時代にかけての日本での政治家であり見直してみたい。
根本正は、茨城県でごく少数の人にJR水郡線を作った代議士として知られています。しかし、明治・大正 の時代の数ある政治家の中で、根本正ほど子供の立場に立って、子供が健全に成長し、自立できる人間になるよう努力した政治家はあまりいません。根本は明治 31年衆議院議員に当選すると「国民教育授業料全廃の建議案」を提出し翌年可決されました。当時小学校では授業料が払えないため子供たちの3分の 1(300万人)が学校に行けませんでした。
根本は国民全員が平等に義務教育を受ける事が、国の発展と拡大する格差是正に必要と考えまし た。明治30年代末には就学率は96%になり、その結果、明治40年義務教育は4年から6年になりました。そして、未成年者をタバコや酒の害からまもるた め明治33年には「未成年者喫煙禁止法」を「未成年者飲酒禁止法」を21年間苦闘して大正11年成立させました。
根本は水戸市の北の那珂市東木倉で生まれ、親戚の豊田天功という武士の下僕になりその後東京 に出て人力車を引き乍ら、啓蒙学者中村正直の塾に入り英語と西洋の学問とキリスト教を学び、苦学してアメリカに留学しました。そのひたむきさに共感した篤 志家に支援されバーモント大学を卒業しました。
座右の銘 「楽は苦の種苦は楽の種」
「踏まれても 根強く忍べ 道芝の やがて花咲く 春をこそ待て」
【禁酒禁煙法の父】根本正(ねもと・しょう)・茨城の偉人
根本正(ねもと・しょう)・茨城の偉人
常陸国那珂郡東木倉村(茨城県那珂市東木倉)生まれ。
嘉永4年(1851)10月1日‐昭和8年(1933)1月5日 83歳
明治・大正時代の政治家、禁酒運動家。
「禁酒禁煙法の父」「青少年健全育成の父」と称された清廉高志の政治家。
祖父は庄屋をつとめ、幼年時代に正はこの祖父に読み書きを習った。
父徳孝は久慈郡西宮村(茨城県常陸太田市)の庄屋から婿養子にきていた。
父徳孝の母親が豊田家の出身で、水戸藩の高名な水戸学者で彰考館総裁・豊田天功と徳孝とは従兄弟の間柄である。
その縁で、13歳のとき水戸に出て、天功の門人となり、その後、17歳で水戸藩の下級役人となった。
明治元年(1868)将軍名代としてパリ万国博覧会出席後、ヨーロッパから帰国した徳川昭武(水戸藩最後の藩主)に随行していた水戸藩士の持ち帰った時計とマッチを見て、正は驚嘆した。
このとき正は、これからは欧米の科学文明を学ばなければと痛感し、英語を学ぶことを決意した。
東京に出て、中村正直の同人社で英語を学ぶが、実家には知らせず上京しており、生活は苦しく夜は人力車夫として働きながら勉強を続けた。
英語を本当に身に付けるためには留学しなければならないと考えた正は、巡査や神戸の外国郵便局につとめながら洋行のチャンスを待った。
明治10年(1877)横浜の外国郵便局に転勤となった正はヘボン塾で英語を学びながら欧米諸国の事情を知ることに努めた。
また、明治11年(1878)5月には横浜の教会でキリスト教の洗礼を受けた。
明治12年(1879)正29歳のとき、職場の同僚のアメリカ人の紹介によって、ついにアメリカへの留学が実現した。
アメリカでも働きながら勉強し、まずは小学校に入学した。
日本で学んできた英会話があまり通じなかったため小学校から始め、2年後に中学校へ進学、4年後にバーモント州立大学に進学した。
政治学を専攻して、明治22年(1889)6月、39歳で卒業した正は、その卒業式で英語による演説で拍手喝采を浴び、これは翌日の新聞でも報道された。
渡米してから11年近く、明治23年(1890)に政治家を志して帰国した正は、板垣退助に請われて愛国公党に入党し、以後、この流れの政党(自由党、立憲政友会)に所属して政治活動を続けた。
同年3月、外務官僚でキリスト教信者の安藤太郎とともに、最初の禁酒運動団体の東京禁酒会(のち日本禁酒同盟)を結成し、機関誌『国の光』を発刊した。
2度の落選を経て、明治31年(1898)3度目の選挙で初当選を果たした。47歳になっていた。
その後は、連続10回の当選し、27年間にわたり代議士(衆議院議員)として活躍する。
正が代議士となったのは、国民教育の普及と交通機関の完成という二つの目的のためであった。
アメリカで小学校から学んだ正は、貧しい家の子どもたちにも授業料を取らず平等に教育を受けられる制度を目の当たりにし、この制度こそ国力充実の源泉であると考えた。
そのため、日本の尋常小学校の授業料無料化を実現するための予算措置、すなわち各市町村への国庫補助の実現に尽力し、義務教育費国庫補助の基礎をつくった。
明治44年(1911)には、茨城県と福島県の山間部の山林資源を活かし、木材の大量輸送が可能な鉄道敷設(水郡線・水戸‐郡山間)の建議案を福島選出の代議士らと国会に提出した。
民間で営業を開始していた区間などもあったが、国の事業として建設が決まる大正9年(1920)まで正は粘り強く建設を国に訴え続けた。
青少年の健全な育成に取り組んだことも、正の大きな功績である。
正は、国庫補助法により税金を使って教育を行う以上、その教育は効果のあるものでなくてはならず、不健全な成人に育つことを排斥する必要があると考えた。
明治33年(1900)には、未成年喫煙禁止法が施行せれるが、未成年飲酒禁止法の施行には大きな壁があった。
酒税の税収を考える政府、酒造関係者と結びつく代議士、当時は代議士自身が酒造関係者というケースも非常に多かった。
いまでは当たり前の未成年者の飲酒禁止は、この時代には当然だったのではなく、根本正という政治家の尽力によって実現したものだったのである。
議長が「未成年者飲酒禁止法案、根本正君」という声が聞こえる頃は、議場は罵りと雑踏でした。
佐々木蒙古王と名のついた議員など、酒気満面「根本正―ネモショウ!」と怒号です。「アーメン、アーメン!ヨセヨセ!」などと、少数しか議席につかず、囲いに立ったまゝでの妨害です。……
見れば根本先生は、短躯を議頭に起って大声、水戸黄門の言葉から始めて、禁酒の必要を述べられております。時々先生独特の大声を張り上げ、手を振り、卓をたゝいて述べられるのです。大部分は聞き取れません。
静かになった時、先生は降壇されておるという実情でした。そして勿論否決。私は飛んで廊下に出ます。涙を両頬から遠慮なく流して。必ず先生は出てこられて、「守屋さん、反対があってありかたい。知らん顔されたら申し訳ない」とかえってなぐさめて下さる有様でした。何年こうした事を繰り返したことだったでしょう。……(守屋東「根本正先生」)
明治34年(1901)に初めて国会に提出された「未成年者飲酒禁止法」が成立するのは大正11年(1922)3月のことであった。
実に22年の歳月をかけて、正は粘り強く説得を続けたのである。
『根本正伝―未成年者飲酒禁止法を作った人』
この夜、根本代議士と会った守屋東は、あまりにも静かだった彼の様子を記憶している。そしてかえって昔、議場で演説の妨害を受けていた頃、傍聴していた皆を慰めてくれた頃の根本代議士の様子の方が生き生きとしていたと言っている。根本代議士は徳川議長にあいさつをして議事堂を出た。
堀の向こうに静まりかえった皇居の森がある。脱藩した水戸浪上達が井伊家の行列に雪の上を走って切り込んだところである。彼はその夜も歩いて自宅へ帰ったであろう。彼は水戸から陳情の人々が来てもテクテクと歩いて彼らを引き連れたという。人力車にはよはどのことがなければ乗らなかった。昔の自分を思うと、乗る気持になれなかったのだろう。丘の上にある安藤記念教会へ通うとき、荷車などを見ると彼はすぐ後ろから押したという。
ところで、その夜、彼が見せた「あまりにも静かだった様子」とは何だろう。著者は、彼と藤田東湖に相通ずるものを感ずる。根本代議士はクリスチャンであり、彼を議会の外で支援したのは多くのキリスト教徒であった。しかし議会特に貴族院という別の世界で彼の目的を遂げるには“殿様”の力が必要だった。
東湖という人―心中一点のくもりない、経済に明るい天保の改革者、尊王思想の革命家―も「二十五回刀水を渡る」ことをしながら、殿様の力を借りざるを得なかった。根本正はロ述自伝『微光八十年』にも何の苦労話、裏話も述べていない。ただその本のロ絵の写真の中に、「至誠貫一生」と「政在養民」という二つの書を説明することなく載せている。書いた人はそれぞれ「静岳」と「涛山」、つまり徳川宗家の殿様(家達)と水戸の殿様(圀順)である。
ともあれ法律はできた。この法律が、多くの若者とその親に、アルコールには害もあるのだと知らせるきっかけとなってゆくのである。それこそは間違いなく彼が望んだことなのだ。
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那珂市に昨年名誉市民になった根本正がいる。明治初期から大正時代にかけての日本での政治家であり見直してみたい。
座右の銘 「楽は苦の種苦は楽の種」
【禁酒禁煙法の父】根本正(ねもと・しょう)・茨城の偉人「踏まれても 根強く忍べ 道芝の やがて花咲く 春をこそ待て」
根本正(ねもと・しょう)・茨城の偉人
常陸国那珂郡東木倉村(茨城県那珂市東木倉)生まれ。
嘉永4年(1851)10月1日‐昭和8年(1933)1月5日 83歳
明治・大正時代の政治家、禁酒運動家。
「禁酒禁煙法の父」「青少年健全育成の父」と称された清廉高志の政治家。
祖父は庄屋をつとめ、幼年時代に正はこの祖父に読み書きを習った。
父徳孝は久慈郡西宮村(茨城県常陸太田市)の庄屋から婿養子にきていた。
父徳孝の母親が豊田家の出身で、水戸藩の高名な水戸学者で彰考館総裁・豊田天功と徳孝とは従兄弟の間柄である。
その縁で、13歳のとき水戸に出て、天功の門人となり、その後、17歳で水戸藩の下級役人となった。
明治元年(1868)将軍名代としてパリ万国博覧会出席後、ヨーロッパから帰国した徳川昭武(水戸藩最後の藩主)に随行していた水戸藩士の持ち帰った時計とマッチを見て、正は驚嘆した。
このとき正は、これからは欧米の科学文明を学ばなければと痛感し、英語を学ぶことを決意した。
東京に出て、中村正直の同人社で英語を学ぶが、実家には知らせず上京しており、生活は苦しく夜は人力車夫として働きながら勉強を続けた。
英語を本当に身に付けるためには留学しなければならないと考えた正は、巡査や神戸の外国郵便局につとめながら洋行のチャンスを待った。
明治10年(1877)横浜の外国郵便局に転勤となった正はヘボン塾で英語を学びながら欧米諸国の事情を知ることに努めた。
また、明治11年(1878)5月には横浜の教会でキリスト教の洗礼を受けた。
明治12年(1879)正29歳のとき、職場の同僚のアメリカ人の紹介によって、ついにアメリカへの留学が実現した。
アメリカでも働きながら勉強し、まずは小学校に入学した。
日本で学んできた英会話があまり通じなかったため小学校から始め、2年後に中学校へ進学、4年後にバーモント州立大学に進学した。
政治学を専攻して、明治22年(1889)6月、39歳で卒業した正は、その卒業式で英語による演説で拍手喝采を浴び、これは翌日の新聞でも報道された。
渡米してから11年近く、明治23年(1890)に政治家を志して帰国した正は、板垣退助に請われて愛国公党に入党し、以後、この流れの政党(自由党、立憲政友会)に所属して政治活動を続けた。
同年3月、外務官僚でキリスト教信者の安藤太郎とともに、最初の禁酒運動団体の東京禁酒会(のち日本禁酒同盟)を結成し、機関誌『国の光』を発刊した。
2度の落選を経て、明治31年(1898)3度目の選挙で初当選を果たした。47歳になっていた。
その後は、連続10回の当選し、27年間にわたり代議士(衆議院議員)として活躍する。
正が代議士となったのは、国民教育の普及と交通機関の完成という二つの目的のためであった。
アメリカで小学校から学んだ正は、貧しい家の子どもたちにも授業料を取らず平等に教育を受けられる制度を目の当たりにし、この制度こそ国力充実の源泉であると考えた。
そのため、日本の尋常小学校の授業料無料化を実現するための予算措置、すなわち各市町村への国庫補助の実現に尽力し、義務教育費国庫補助の基礎をつくった。
明治44年(1911)には、茨城県と福島県の山間部の山林資源を活かし、木材の大量輸送が可能な鉄道敷設(水郡線・水戸‐郡山間)の建議案を福島選出の代議士らと国会に提出した。
民間で営業を開始していた区間などもあったが、国の事業として建設が決まる大正9年(1920)まで正は粘り強く建設を国に訴え続けた。
青少年の健全な育成に取り組んだことも、正の大きな功績である。
正は、国庫補助法により税金を使って教育を行う以上、その教育は効果のあるものでなくてはならず、不健全な成人に育つことを排斥する必要があると考えた。
明治33年(1900)には、未成年喫煙禁止法が施行せれるが、未成年飲酒禁止法の施行には大きな壁があった。
酒税の税収を考える政府、酒造関係者と結びつく代議士、当時は代議士自身が酒造関係者というケースも非常に多かった。
いまでは当たり前の未成年者の飲酒禁止は、この時代には当然だったのではなく、根本正という政治家の尽力によって実現したものだったのである。
議長が「未成年者飲酒禁止法案、根本正君」という声が聞こえる頃は、議場は罵りと雑踏でした。
佐々木蒙古王と名のついた議員など、酒気満面「根本正―ネモショウ!」と怒号です。「アーメン、アーメン!ヨセヨセ!」などと、少数しか議席につかず、囲いに立ったまゝでの妨害です。……
見れば根本先生は、短躯を議頭に起って大声、水戸黄門の言葉から始めて、禁酒の必要を述べられております。時々先生独特の大声を張り上げ、手を振り、卓をたゝいて述べられるのです。大部分は聞き取れません。
静かになった時、先生は降壇されておるという実情でした。そして勿論否決。私は飛んで廊下に出ます。涙を両頬から遠慮なく流して。必ず先生は出てこられて、「守屋さん、反対があってありかたい。知らん顔されたら申し訳ない」とかえってなぐさめて下さる有様でした。何年こうした事を繰り返したことだったでしょう。……(守屋東「根本正先生」)
明治34年(1901)に初めて国会に提出された「未成年者飲酒禁止法」が成立するのは大正11年(1922)3月のことであった。
実に22年の歳月をかけて、正は粘り強く説得を続けたのである。
『根本正伝―未成年者飲酒禁止法を作った人』
この夜、根本代議士と会った守屋東は、あまりにも静かだった彼の様子を記憶している。そしてかえって昔、議場で演説の妨害を受けていた頃、傍聴していた皆を慰めてくれた頃の根本代議士の様子の方が生き生きとしていたと言っている。根本代議士は徳川議長にあいさつをして議事堂を出た。
堀の向こうに静まりかえった皇居の森がある。脱藩した水戸浪上達が井伊家の行列に雪の上を走って切り込んだところである。彼はその夜も歩いて自宅へ帰ったであろう。彼は水戸から陳情の人々が来てもテクテクと歩いて彼らを引き連れたという。人力車にはよはどのことがなければ乗らなかった。昔の自分を思うと、乗る気持になれなかったのだろう。丘の上にある安藤記念教会へ通うとき、荷車などを見ると彼はすぐ後ろから押したという。
ところで、その夜、彼が見せた「あまりにも静かだった様子」とは何だろう。著者は、彼と藤田東湖に相通ずるものを感ずる。根本代議士はクリスチャンであり、彼を議会の外で支援したのは多くのキリスト教徒であった。しかし議会特に貴族院という別の世界で彼の目的を遂げるには“殿様”の力が必要だった。
東湖という人―心中一点のくもりない、経済に明るい天保の改革者、尊王思想の革命家―も「二十五回刀水を渡る」ことをしながら、殿様の力を借りざるを得なかった。根本正はロ述自伝『微光八十年』にも何の苦労話、裏話も述べていない。ただその本のロ絵の写真の中に、「至誠貫一生」と「政在養民」という二つの書を説明することなく載せている。書いた人はそれぞれ「静岳」と「涛山」、つまり徳川宗家の殿様(家達)と水戸の殿様(圀順)である。
ともあれ法律はできた。この法律が、多くの若者とその親に、アルコールには害もあるのだと知らせるきっかけとなってゆくのである。それこそは間違いなく彼が望んだことなのだ。