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2016年03月22日(火)

びる遮那寺の文覚上人とは?

1192年にびる遮那寺は文覚上人の創建と言われています。文覚上人は武士で遠藤盛遠といいました。
平安の神護寺の再興等歴史上も有名である。
平安末期の神護寺は、大変衰微していた。
 平家物語の作者によると、「久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧に交はり、扉は風に倒れて落ち葉の下に朽ち、甍は雨露におかされて仏 壇更にあらはなり、住持の僧もなければ、稀にさし入るものとては、日月の光ばかりなり」という惨憺たる有様であった。
 これを復興しようという大願を起こしたのが、文覚であった。
 仁安三年(1168)、三十歳のころ当寺を訪れた文覚は、早速草庵をつくり、薬師堂を建てて本尊を安置し、空海住坊跡である納凉殿、不動堂等を再建す る。
 しかし、復興事業が思うにまかせぬため、承安三年(1173)、意を決した文覚は後白河法皇の法住寺殿におもむき、千石の収入のある荘園の寄進を強要し た。
 そのため、法皇の逆鱗にふれ、伊豆に流されることとなった。
 この地で文覚は、平治の乱のときに清盛の義母池禅尼の助命によって辛うじて斬罪を免れた源氏の嫡男、源頼朝と親しくなっていた。
。この文覚は小説や芝居の舞台でとりあげられます。上人上西門院(鳥羽天皇の第二皇女、統子)に仕える、北面の武士遠藤盛遠は十九の年頃鳥
羽に住む同僚の渡辺亘の妻袈裟御前に一目惚れをし。血気盛んな年頃押しのいっ手とバ
カリに云い寄り。一方、袈裟にも少しは気があったのでしょう、何度か密会を重ねるうちにす
っかり心を奪われ、もはやこれまで、ある日盛遠は、「亘と別れて、俺と一緒になれ」と、手荒
いプロポーズを受けた。
袈裟にすれば、ほんの遊び心でしたが、一本気で思い込みの激しい盛遠を説得する自信も
なく、自らにも非があるので、まさか夫に相談するわけにも行かず、はてと困り果て!!
さんざん悩んだ揚げ句、一計を案じた袈裟は、「今夜、寝静まった頃に寝所に入って、夫を殺し
て下さい」と、言い出しました。
夜も更けて、亘の館を訪ねると、袈裟に教えられた寝所の扉は、すでに開け放たれていた。
袈裟の心遣いかと一人合点した盛遠は、太刀を抜き放って、難なく部屋へ侵入することがで
きた。
寝所の闇に目を凝らして見ると、確かに人の寝ている気配が!!。
足音を忍ばせて近づいた盛遠は、盛り上がった寝具の胸のあたりを目掛けて、一気に太刀を
突き立て。確かな手応えがあって、亘は血吹雪の中で、絶命したと確信。
袈裟に見せんがため、首を掻き取り髪を掴んで、表に出ると、館の外は何事も無かったよう
に、静寂に包まれ、月の光がこうこうと、木々の間から差し込み、まさに快心の足取りで、手
に持った首を確かめんとして、月明かりにかざした盛遠は、腰を抜かさんばかりに仰天!!
盛遠がそこに見たのは亘に非ず、袈裟御前の首だった。
思わず放した盛遠の手から、袈裟の首が地面に落ち。 ごろりと転がって、血と土にまみれた
首は、じっと盛遠を見上げていた。
おのれの愚かさを知り、この世の無常を思い知った盛遠は墨染めの衣に身を包み、雲水
「文覚」と名のり、厳寒の那智で荒行に挑みましたが、月に照らされた袈裟の顔は、生涯
脳裏から拭い去る事は出来ませんでした。。。。。。『源平盛衰記』の一説