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2018年06月04日(月)
額田船渡部落に関する考察
船渡(ふなと)部落は亡き冨岡銀二郎氏がよく語ってくれた所でもある。
久慈川の対岸の河合地区に堤防が作られるまで、額田岸には多くの人たちが居住していた。いわゆる船渡部落である。江戸幕府時代まで軍事上の考慮から重要な街道の河川への橋を架ける事が許されていなかった。水戸と岩代の棚倉を結び仙台青森を結ぶ棚倉街道は、江戸後期には参勤交代の街道でもあった。昔は幸久橋は無く、久慈川は舟で人や馬を渡した事実から部落名が船渡部落とつけられたという。
天保六年の額田軒別帳には旅人の為舟越を業として営んでいた船頭が三軒あったという。通行の人馬は洪水ともなると川留めとなり、舟は出せず旅人は宿場に泊まり日を過ごした。大洪水ともなると、太田迄一面水浸しであったのである。明治維新後は橋が架けられ、橋銭を払って渡るようになって守番小屋が設けられ、守番を桑原雪之助氏が勤めた。
明治31年、水戸・額田間に水戸鉄道が開通、久慈川停車場もこの地に設けられた。汽車の登場は住民を驚かした。
当時の交通機関としてはトテー馬車と人力車、貨物は駄馬、川は舟か筏しかなかったのである。本田廻漕店や森山・宇野両氏の運送業その他の店が開かれ、居住者も増加し乗客や鉄橋架設工事の従業者などで、額田・河合は賑わったが鉄橋工事完成と同時に停車場は廃止され、河合駅が設けられた。久慈郡大子、福島の東館地方の林産地から久慈川を筏で流して額田で製材し、久慈川駅から東京方面に輸送したので製板業も盛んになり生産額も増加したのである。
東館の片野豊作氏が川岸額田製板処を設立して生産三万石の大会社が出現したのでもある。工員は50余名であったから、戸数30戸の船渡部落は更に賑わいを見せた。
その後、片野氏は川嶋製板所に権利を譲渡し、郷里に帰られたという。川嶋製挽工場と高倉製挽工場は蒸気による機械化を図り、その工場は見物人の対象ともなったのである。高岡の鈴木為助翁は近郷で見たこともない珍しい光景に驚いたと額田公民館報で記してある。
当時、水戸市から職工頭として福田某氏が来られ、40余人の工員を指揮して筏の解体、製板の結束、運搬・雑役を行っていた。製材されたものは河合駅に運ばれ、東京方面に輸送された。筏が東館から流され、額田岸から河合岸で筏に継がれ、渡される迄に集結したというから売買取引の客や商人で賑わい、遠くは信州や上州からの者も来たという。
好景気に乗じて建具屋・商店も集まり、長屋も三軒できて、一躍60の世帯で船渡部落は賑わいを見せた。川向の
河合地区の舟屋、広木屋・扇屋などの料理旅籠屋は、毎晩の客で歌や三味線の音で大景気、燈火は川の水面に映って、その夜の賑わいに部落民の心も踊ったという。
当時の歌、久慈郡と那珂の境のあの久慈川を下る筏はありや多はれど淵や浅瀬に悩まされ、明日は又ちいちい河合(可愛い)額田につきかねる、ちょいちょいちょいなっちょい
水郡線の開通に伴い、大子・東館からの筏の久慈川下りも無くなり、製板工場も成り立たず、部落民は転業の止むなきにいたった。村も水害毎の救済対策減からも転居を奨励したので、額田宿へ転住し、住宅地は姿を消した。畑地と思っていたら、謄本上、宅地だったと驚く住民(舟渡住人中原政一郎氏孫昌幸氏談)もいるに至った船渡部落の変遷である。
小学生の頃、生きていれば百歳になる父・久彦は当時を振り返って、川岸に近い所に天野家があり、次に中原政一郎氏と並んで建っていた軒並みがあったという。桑原雪之助氏の娘が諏佐ツヤ氏であるから幼い頃のことは聞けば良いと言われ、晩年に聞いたが記憶が無いと言われた。もっと早いうちに聞いておけば良かったのであるが、現役の時は興味は無かったのである。
土橋があり、溜池が二つあって泥水の中を泳いだ記憶がある。土橋近くに関さんがあったんだよ。銀二郎氏の言葉も懐かしくなってしまった。土橋の下に池があり、鮒や鰻が獲れた。タナゴの事を「おしゃらくブナ」と言ったのは昔の懐かしい記憶でもある。後に転住した人たちが木工業を広めた。後に元日立一高の校長・宮崎明氏が額田の木工業について述べている。中原仁蔵氏を中心に旧古宿町全域に木工は及んだ。障子・雨戸・風呂・神棚・棺に至る迄、多くの人達が関わってきた木工の一大生産地であった。
那珂湊の大火災、日立市の艦砲射撃による焼け野原、水戸の全滅と戦後の復興に欠かせない木工業でもあったのである。運送に車が無い時代、「馬車ひき」と言われる人達も活躍した。額田が活性化した時代でもあった。
ここに船渡部落を記すにあたり、種々教えて頂いた冨岡銀二郎氏に感謝するとともに鈴木為助翁の記録に感謝するものである。
額田北郷 小田部一彦
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久慈川の対岸の河合地区に堤防が作られるまで、額田岸には多くの人たちが居住していた。いわゆる船渡部落である。江戸幕府時代まで軍事上の考慮から重要な街道の河川への橋を架ける事が許されていなかった。水戸と岩代の棚倉を結び仙台青森を結ぶ棚倉街道は、江戸後期には参勤交代の街道でもあった。昔は幸久橋は無く、久慈川は舟で人や馬を渡した事実から部落名が船渡部落とつけられたという。
天保六年の額田軒別帳には旅人の為舟越を業として営んでいた船頭が三軒あったという。通行の人馬は洪水ともなると川留めとなり、舟は出せず旅人は宿場に泊まり日を過ごした。大洪水ともなると、太田迄一面水浸しであったのである。明治維新後は橋が架けられ、橋銭を払って渡るようになって守番小屋が設けられ、守番を桑原雪之助氏が勤めた。
明治31年、水戸・額田間に水戸鉄道が開通、久慈川停車場もこの地に設けられた。汽車の登場は住民を驚かした。
当時の交通機関としてはトテー馬車と人力車、貨物は駄馬、川は舟か筏しかなかったのである。本田廻漕店や森山・宇野両氏の運送業その他の店が開かれ、居住者も増加し乗客や鉄橋架設工事の従業者などで、額田・河合は賑わったが鉄橋工事完成と同時に停車場は廃止され、河合駅が設けられた。久慈郡大子、福島の東館地方の林産地から久慈川を筏で流して額田で製材し、久慈川駅から東京方面に輸送したので製板業も盛んになり生産額も増加したのである。
東館の片野豊作氏が川岸額田製板処を設立して生産三万石の大会社が出現したのでもある。工員は50余名であったから、戸数30戸の船渡部落は更に賑わいを見せた。
その後、片野氏は川嶋製板所に権利を譲渡し、郷里に帰られたという。川嶋製挽工場と高倉製挽工場は蒸気による機械化を図り、その工場は見物人の対象ともなったのである。高岡の鈴木為助翁は近郷で見たこともない珍しい光景に驚いたと額田公民館報で記してある。
当時、水戸市から職工頭として福田某氏が来られ、40余人の工員を指揮して筏の解体、製板の結束、運搬・雑役を行っていた。製材されたものは河合駅に運ばれ、東京方面に輸送された。筏が東館から流され、額田岸から河合岸で筏に継がれ、渡される迄に集結したというから売買取引の客や商人で賑わい、遠くは信州や上州からの者も来たという。
好景気に乗じて建具屋・商店も集まり、長屋も三軒できて、一躍60の世帯で船渡部落は賑わいを見せた。川向の
河合地区の舟屋、広木屋・扇屋などの料理旅籠屋は、毎晩の客で歌や三味線の音で大景気、燈火は川の水面に映って、その夜の賑わいに部落民の心も踊ったという。
当時の歌、久慈郡と那珂の境のあの久慈川を下る筏はありや多はれど淵や浅瀬に悩まされ、明日は又ちいちい河合(可愛い)額田につきかねる、ちょいちょいちょいなっちょい
水郡線の開通に伴い、大子・東館からの筏の久慈川下りも無くなり、製板工場も成り立たず、部落民は転業の止むなきにいたった。村も水害毎の救済対策減からも転居を奨励したので、額田宿へ転住し、住宅地は姿を消した。畑地と思っていたら、謄本上、宅地だったと驚く住民(舟渡住人中原政一郎氏孫昌幸氏談)もいるに至った船渡部落の変遷である。
小学生の頃、生きていれば百歳になる父・久彦は当時を振り返って、川岸に近い所に天野家があり、次に中原政一郎氏と並んで建っていた軒並みがあったという。桑原雪之助氏の娘が諏佐ツヤ氏であるから幼い頃のことは聞けば良いと言われ、晩年に聞いたが記憶が無いと言われた。もっと早いうちに聞いておけば良かったのであるが、現役の時は興味は無かったのである。
土橋があり、溜池が二つあって泥水の中を泳いだ記憶がある。土橋近くに関さんがあったんだよ。銀二郎氏の言葉も懐かしくなってしまった。土橋の下に池があり、鮒や鰻が獲れた。タナゴの事を「おしゃらくブナ」と言ったのは昔の懐かしい記憶でもある。後に転住した人たちが木工業を広めた。後に元日立一高の校長・宮崎明氏が額田の木工業について述べている。中原仁蔵氏を中心に旧古宿町全域に木工は及んだ。障子・雨戸・風呂・神棚・棺に至る迄、多くの人達が関わってきた木工の一大生産地であった。
那珂湊の大火災、日立市の艦砲射撃による焼け野原、水戸の全滅と戦後の復興に欠かせない木工業でもあったのである。運送に車が無い時代、「馬車ひき」と言われる人達も活躍した。額田が活性化した時代でもあった。
ここに船渡部落を記すにあたり、種々教えて頂いた冨岡銀二郎氏に感謝するとともに鈴木為助翁の記録に感謝するものである。
額田北郷 小田部一彦