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2018年06月04日(月)
額田小学校創立145周年を迎えて
終戦の翌々年に生まれた私たちは1クラス56〜7名と多かった。
当時は今のグランドの体育館側が額田中学校、砂場側が額田小学校と同じ敷地に建っていた。中央に額田神社に繋がる道路があり、分けていたのである。職員室前にもちの木があり、その西側に大きなイチョウの巨木があった。のちに中学校は神崎中と統合し、那珂二中となり、今の場所にもちの木が移植された。私たちが小学生の時は男子は学生服を着ていた。夏は霜降りの半ズボンであった。白と黒を基調に色物は着せられなかったのである。女子はおかっぱ頭であった。今のように車社会でなく、先生方も自転車で来たように記憶している。村内が自給自足の暮らしであったので、自転車屋さんや魚屋さんが4〜5軒あったのである。木工業が盛んで、雨戸、風呂、障子、襖、桶等作られていた。大工さんはじめ職人さんが多かった。サラリーマンという言葉がなく、勤め人、月給取りと言われていた。日常品は村内で購入し、村々の経済活動であった。木崎村や神崎村、幸久村から買いものに来たり、芝居見物にやってきたのである。私たちの使う文房具も学校の周りに数件の店があったのである。学校の東側に洋裁学校があった。額田地区は明治時代は那珂地区で人口が最も多く、いち早く小学校もできた。創立して、数年後高等科が設けられるがこの高等科に石神、村松、五台、菅谷からも通学してきたから、卒業生は額田在住の方に限られなかったのである。この人たちは生きていれば百歳から百二十歳を超えることになる。額田小学校は名門小学校であった。何と第2代校長は野口雨情の叔父さんであった。1年やって、衆議院議員となる野口勝一氏である。この人は今でもこの地区に関わることになる。なぜなら、久慈川にかかる幸久橋の命名者だからでもある。
話は戻って、私たちの小学校生活を振り返ってみよう。
まず、急に雨が降ると、備え付けの傘がコウモリでなく、唐傘であった。広げると額田小学校と書いてあった。室内履きはシューズではなく麻裏という草履であった。当時、麻裏は大工さん等職人さんが履いていた。歩いたり、走ったりするとどたどた音がしたので、いつも週番の目標に『廊下を走らない』が掲げられた。腕白者が多かったせいか、『鉄橋を渡らない。生梅を食べない。』が目標だったのである。
冬休みの最大の楽しみはお正月。元日は元旦祭があり、登校日となった。女の先生は紫の袴姿で元日らしく清楚さを子供ながらに感じた。ただ、私たちの最大の楽しみは紅白の饅頭をもらうことであった。食うことに貪欲であった。学校から帰るや否やの発声は「母ちゃん、腹減った。何かある。」であった。いうと同時に戸棚を片っ端から開けたのである。
遠足も楽しかった。現地まで歩くとか汽車で行き、駅から目的地に歩くといったまさしく遠足であった。1年 横堀地蔵 駒形神社 2年 常陸太田 西山荘 3年 水戸 茨城県庁 三夜尊 4年 笠間稲荷 5年 袋田 6年 東京が定番だった。
運動会は壮大だ。小中合同なので900人が体操で広がるとグランドも目いっぱいの感。お陰で現在年上の人は忘れないでいる。小学校当時でも中学野球が見られたから、その時の印象が残っているのでもある。
芝居の話をしたが岩佐座という映画館があった。月に一度かな。岩佐座の前にバスが止まっていた。辰巳柳太郎劇団と書いてあった。のちに新国劇のあの有名な辰巳柳太郎であった。もしかしたら、若き日の大山勝巳や緒形拳も来ていたのかもしれない。むしろの観客席があり、木戸番のおばちゃんがいた。今あったら面白かろうにと感慨にふける。
小学校で習ったもので今役に立っているものがある。小学4年の国語で日本のことわざというテーマだったと思うが。『朝雨にみの要らず』と『日照りかぼちゃに陰なすび』であった。朝大雨でも、必ず止むというのには助けられた。ゴルフを中止にするかどうか迷うとき必ずこのことわざを出すのであるがまず外れたことはない。晴れ渡った中でプレーができ。みんなに感謝されているのである。今年の小学校の運動会当日。朝雨が降っていた。そのことわざをある人に語った。まさしく晴れ渡った。
60年過ぎても格言はまさしく生きている。日の当たる所になすを植えるとなすが割れたり、きれいに表面がならない。
そのほか、夕方ツバメが低く飛ぶと鎌を研がないとかあったが、その当時何を言っているのか理解できていなかった。鎌を研がないが雨が降ると明日農作業ができないまでは予想できなかったのである。大人になってこのことに気付いた次第でもある。
ところで、今うれしいことがある。当時の先生が健在で出会える機会がある喜びである。2月10日の中央公民館での私の講演会に何と卒寿を過ぎた勝山先生が見えてる。文化祭に勝山、桧山両先生の書が見られ説明を受けた。高齢でも字が生きている。こういう姿勢は勉強になる。勝山先生は額田城跡の案内にも見学者として来てくれた。有難いではないか。私が新聞に掲載されてると施設の公衆電話から電話をしてくれる堀口先生。私が手を骨折していた時、病院で出会った桐原先生。一彦君どこが悪いのと声をかけてくれる気づかいがうれしい。先生は1年の担任。入学時に先生が用意してくれた文房具の物差しが我が家に残っている。素晴らしい字だ。黒々と物差しの裏に『小田部一彦』と書いてある。何回も家を離れて64年、まだ残っている。母に感謝であるが先生方に改めて感謝だ。前述の紫の袴をはいて登校した先生に何と60年ぶりに出会った。額田神社に山車を見物に来たのである。那珂市の公民館講座で20数名の中にいたのである。「私わかる。会沢です。」「わかります。三宅先生でしょう。」いつかは会えると思いながらも思いがけない再会であった。「旧姓で呼ばれたことないからびっくりした。」お互い人が見ているのも気にもせず手をたたきあい喜びをあらわにした。予想だにしない
感激の再会であった。平成30年6月のことである。
今、悠久の額田のホームページを運営しているが最後にあらゆる意味で額田小学校は私の心の中で永久に不滅である。
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当時は今のグランドの体育館側が額田中学校、砂場側が額田小学校と同じ敷地に建っていた。中央に額田神社に繋がる道路があり、分けていたのである。職員室前にもちの木があり、その西側に大きなイチョウの巨木があった。のちに中学校は神崎中と統合し、那珂二中となり、今の場所にもちの木が移植された。私たちが小学生の時は男子は学生服を着ていた。夏は霜降りの半ズボンであった。白と黒を基調に色物は着せられなかったのである。女子はおかっぱ頭であった。今のように車社会でなく、先生方も自転車で来たように記憶している。村内が自給自足の暮らしであったので、自転車屋さんや魚屋さんが4〜5軒あったのである。木工業が盛んで、雨戸、風呂、障子、襖、桶等作られていた。大工さんはじめ職人さんが多かった。サラリーマンという言葉がなく、勤め人、月給取りと言われていた。日常品は村内で購入し、村々の経済活動であった。木崎村や神崎村、幸久村から買いものに来たり、芝居見物にやってきたのである。私たちの使う文房具も学校の周りに数件の店があったのである。学校の東側に洋裁学校があった。額田地区は明治時代は那珂地区で人口が最も多く、いち早く小学校もできた。創立して、数年後高等科が設けられるがこの高等科に石神、村松、五台、菅谷からも通学してきたから、卒業生は額田在住の方に限られなかったのである。この人たちは生きていれば百歳から百二十歳を超えることになる。額田小学校は名門小学校であった。何と第2代校長は野口雨情の叔父さんであった。1年やって、衆議院議員となる野口勝一氏である。この人は今でもこの地区に関わることになる。なぜなら、久慈川にかかる幸久橋の命名者だからでもある。
話は戻って、私たちの小学校生活を振り返ってみよう。
まず、急に雨が降ると、備え付けの傘がコウモリでなく、唐傘であった。広げると額田小学校と書いてあった。室内履きはシューズではなく麻裏という草履であった。当時、麻裏は大工さん等職人さんが履いていた。歩いたり、走ったりするとどたどた音がしたので、いつも週番の目標に『廊下を走らない』が掲げられた。腕白者が多かったせいか、『鉄橋を渡らない。生梅を食べない。』が目標だったのである。
冬休みの最大の楽しみはお正月。元日は元旦祭があり、登校日となった。女の先生は紫の袴姿で元日らしく清楚さを子供ながらに感じた。ただ、私たちの最大の楽しみは紅白の饅頭をもらうことであった。食うことに貪欲であった。学校から帰るや否やの発声は「母ちゃん、腹減った。何かある。」であった。いうと同時に戸棚を片っ端から開けたのである。
遠足も楽しかった。現地まで歩くとか汽車で行き、駅から目的地に歩くといったまさしく遠足であった。1年 横堀地蔵 駒形神社 2年 常陸太田 西山荘 3年 水戸 茨城県庁 三夜尊 4年 笠間稲荷 5年 袋田 6年 東京が定番だった。
運動会は壮大だ。小中合同なので900人が体操で広がるとグランドも目いっぱいの感。お陰で現在年上の人は忘れないでいる。小学校当時でも中学野球が見られたから、その時の印象が残っているのでもある。
芝居の話をしたが岩佐座という映画館があった。月に一度かな。岩佐座の前にバスが止まっていた。辰巳柳太郎劇団と書いてあった。のちに新国劇のあの有名な辰巳柳太郎であった。もしかしたら、若き日の大山勝巳や緒形拳も来ていたのかもしれない。むしろの観客席があり、木戸番のおばちゃんがいた。今あったら面白かろうにと感慨にふける。
小学校で習ったもので今役に立っているものがある。小学4年の国語で日本のことわざというテーマだったと思うが。『朝雨にみの要らず』と『日照りかぼちゃに陰なすび』であった。朝大雨でも、必ず止むというのには助けられた。ゴルフを中止にするかどうか迷うとき必ずこのことわざを出すのであるがまず外れたことはない。晴れ渡った中でプレーができ。みんなに感謝されているのである。今年の小学校の運動会当日。朝雨が降っていた。そのことわざをある人に語った。まさしく晴れ渡った。
60年過ぎても格言はまさしく生きている。日の当たる所になすを植えるとなすが割れたり、きれいに表面がならない。
そのほか、夕方ツバメが低く飛ぶと鎌を研がないとかあったが、その当時何を言っているのか理解できていなかった。鎌を研がないが雨が降ると明日農作業ができないまでは予想できなかったのである。大人になってこのことに気付いた次第でもある。
ところで、今うれしいことがある。当時の先生が健在で出会える機会がある喜びである。2月10日の中央公民館での私の講演会に何と卒寿を過ぎた勝山先生が見えてる。文化祭に勝山、桧山両先生の書が見られ説明を受けた。高齢でも字が生きている。こういう姿勢は勉強になる。勝山先生は額田城跡の案内にも見学者として来てくれた。有難いではないか。私が新聞に掲載されてると施設の公衆電話から電話をしてくれる堀口先生。私が手を骨折していた時、病院で出会った桐原先生。一彦君どこが悪いのと声をかけてくれる気づかいがうれしい。先生は1年の担任。入学時に先生が用意してくれた文房具の物差しが我が家に残っている。素晴らしい字だ。黒々と物差しの裏に『小田部一彦』と書いてある。何回も家を離れて64年、まだ残っている。母に感謝であるが先生方に改めて感謝だ。前述の紫の袴をはいて登校した先生に何と60年ぶりに出会った。額田神社に山車を見物に来たのである。那珂市の公民館講座で20数名の中にいたのである。「私わかる。会沢です。」「わかります。三宅先生でしょう。」いつかは会えると思いながらも思いがけない再会であった。「旧姓で呼ばれたことないからびっくりした。」お互い人が見ているのも気にもせず手をたたきあい喜びをあらわにした。予想だにしない
感激の再会であった。平成30年6月のことである。
今、悠久の額田のホームページを運営しているが最後にあらゆる意味で額田小学校は私の心の中で永久に不滅である。