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小野崎彦三郎昭通と額田久兵衛

平成25年那珂市額田の民家根本家より額田城陥没之記が発見された。
1591年の額田小野崎氏落城からの記録【額田城陥没之記 別名 額田城陥落之記】である。
逃亡の記録の概要
当時、江戸氏の四天王は谷田部重胤、宿(江戸通澄)、加納通朝、篠原通知であり、谷田部と加納(神生)はライバル同士であった。谷田部(矢田部)と加納の争いに加納氏は額田氏、宍戸氏に加勢を依頼、谷田部は主君を味方につけ、加納を討ち、加納は額田城に逃れる。佐竹本家が加納の引き渡しを要求するも額田氏が拒み、佐竹氏大いに怒り、額田を囲む。
額田勢は小身といえどもその勢い分量を超え七百騎をたもつ。佐竹義宣兵を出すも勝利せず。
佐竹勢、再三の攻撃も額田勢の反抗に為すすべ無く、石田三成を頼り、太閤秀吉の退場勧告を取り付け、太閤奉書をもって、昭通に使者をおくる。奉書かくの如し「速やかに退場せよと、もし違背せば一族残らず共々に科罪に処せん。」
北家の密使により、佐竹菩提寺、天徳寺に退城を勧めあり。南家も逃亡をすすめる。危ゆいとみるや黒羽大関氏を頼る。そこも危ないと内通。日光の中禅寺に逃亡。伊達の使者に迎えられる。伊達政宗を密書の約束通り頼り、落ちる。
【額田城陥没之記】
1599年伊達政宗の娘五郎八姫と家康六男松平忠輝が婚約。
1600年関ヶ原合戦には伊達方として参戦
1602年佐竹義宣秋田移封に伴い、旧領昭通額田氏旧臣が額田城片庭屋敷に戻る
1606年五郎ハ姫松平忠輝に嫁ぐ
松平忠輝に従い、越後窪寺へ
松平忠輝大阪冬の陣夏の陣(1615年)にて軍功なく非礼あり、家康の不興を買い、伊勢朝熊へ配流さる
よって、昭通額田片庭に戻る。
江戸芝増上寺に水戸家から武功の者を求める依頼あり。常州額田に小野崎昭通ありと増上寺国師が水戸家へ推薦
水戸頼房の言「かくの如き武功の士は他国よりも求め得んと欲するところ、自領にいるとは幸いなり。外領に出すことかってこれ有るべからず。」と。「額田民家根本家発見 【額田城陥没之記】参照」
額田城主小野崎昭通、1618年に水戸徳川頼房に仕え、禄600石を賜る。
額田九兵衛を名乗り、これを代襲する。昭通は照通となり、その子定通も孫忠通も九兵衛を襲名する。【那珂市歴史民俗資料館 根本文書より】

増上寺 水戸藩へ仕官のきかっけとなる寺

増上寺 水戸藩へ仕官のきかっけとなる寺
江戸の増上寺の僧侶の推薦により、水戸藩に仕えることになった。額田にとって増上寺はこの時も関わることになるが後世に浄鑑院常福寺が頼みとするも聞き入れられず、斉昭から処分を受けることになる。

小野崎昭通の家臣への手紙発見

小野崎昭通の家臣への手紙発見
小野崎城主が佐竹に敗れた信太氏を採用した。信太氏は土浦の木田余城主で小田氏の執事格であったが佐竹、江戸氏によって滅ぼされた。小野崎昭通は新たに家臣団に加わった木田余氏に先輩格の旧臣に遠慮せず、私が保証するから気にせずに力をふるってくれとの手紙をだした。