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那珂市と佐竹・徳川との関連

額田と佐竹徳川の関連はいずれも常陸太田を舞台として活躍してきた両氏である。佐竹は佐竹昌義の時代、鹿島神で寄進をしており、佐竹5代義重の時代に2男義直が額田城主となり、額田城を築城することになる。佐竹宗家義人の時に額田城主佐竹義亮が落城、佐竹額田氏は滅亡する。水戸徳川の関わりとしては初代徳川頼房の時、最後の額田城主小野崎昭通が落城後、伊達の庇護のもと、徳川松平に救われ、増上寺の仲介により水戸家に仕官する。また、水戸光圀になって、娘が鈴木市十郎のもとへ嫁ぎ、書院を鈴木家に作ったり、浄鑑院常福寺、阿弥陀寺、観音寺の僧侶と酒宴を開いている。また、光圀の弟松平頼元が額田藩を治め、淡島神社を寄進している。光圀も鹿嶋八幡神社を合祀して作り、また、引接寺も作っている。引接寺の阿弥陀如来立像の裏に光圀の自刻の文字を残す。また、徳川斉昭も瑞竜山参拝のおり、鈴木家に立ち寄っている。明治になり、15代将軍徳川慶喜が母の葬儀で、寺門治平宅に泊る。

那珂市額田に泊った15代将軍徳川慶喜

徳川慶喜 慶応2年将軍家茂の死によって義宣は15代将軍に就任する。内憂外患の中、もはや幕府は存亡の危機にあった。フランスとの提携による軍事力の増大、画期的幕政改革等決断と実行力は高く評価されたが孝明天皇の死去により、薩摩長州の討幕運動の高まりの中で情勢は逼迫、大政奉還を余儀なくされ、決意する。。王政復古後、ひたすら恭順の道を選び、江戸城の無血開城を見届け、謹慎のみとへ戻る。謹慎解除後は大半を静岡で暮らし、大正2年小石川で生涯を閉じる。額田には母親の葬儀で瑞竜山に行った帰りに寺門治平宅に泊ることになる。この時治平宅では父斉昭の書いた掛け軸を床の間に飾った。これを見て、畏まってしまった慶喜。父を思い出したのである。微動だにしない。これを見て家人は掛け軸を変えた。それでやっと膝を崩した。このようなエピソードがある。額田寺門治平宅での一幕である