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鈴木家住宅

鈴木市十郎は江戸時代の豪商で紅花長者として有名です。光圀との親交もあり、養女万姫が嫁ぎました。度々光圀が常陸太田市に西山荘に隠居された10年に訪問され、光圀の書院がありました。鈴木市十郎は水戸の紀伊国屋とも言われ、吉原総あげをし、小判をまいた勢いが伝説的に残っています。歴代の殿様が常陸太田市の瑞竜山に参拝する際には模様替えするなど大変なものでした。生垣の萱が近隣の村に用意することが命令されたり、大工、畳職人が入り、改築がなされました。特に厠は殿様の尻に合わせ便所がその度造り変えられました。井戸はらいもなされ、三日三晩、水戸から役人が毒殺されるのを防止するため警戒をしました。西山荘から万姫あてに酒がなくなると額田の鈴木家に連絡がはいり、鈴木家で酒を配達したそうです。御膳が呑むので御膳酒と言われました。書院には久慈川をイメージした波欄間が造られ、廊下は当時のものが残っており、萱ぶきの建屋は県の指定文化財となっています。紅花は江戸、大阪に販売され、財をなしました。庭先の2本のもちの木は3百数十年が経ち、大樹となっています。

鈴木家住宅 

鈴木家住宅は地元では『鈴木御殿』と長年言われてきました。御殿から西山荘へ届けられるお酒は『御前酒』と言われました。
鈴木家住宅 

水戸の紅花長者 鈴木市十郎

水戸藩の紅花長者と言われた鈴木市十郎は紅花を額田で栽培し江戸吉原へ出荷し莫大な利益を上げ産をなした。紅花は儲けが強いので農民も転作し、紅花栽培に走ったため栽培禁止令がでたほどであった。光圀も万姫を嫁がす際に、侍に嫁がせるより豪商に嫁がせた方が幸せになるだろうと思い嫁がせたという。西山荘に隠居した光圀に酒などを手配した。この酒を御前酒といい、鈴木家も御殿と呼ばれた。
 平成21、22年に紅花を鈴木家で栽培されたが今の肥料と良質の土地のため、背丈が伸び、風対策が大変であることがわかった。

萬姫

鈴木市十郎妻萬姫の素性等について
額田村の鈴木市十郎は裕福にて大阪より綿を買い入れ資産家となりました。徳川光圀公は西山にご隠居のおり、水戸 からの往復時に市十郎宅に立ち寄ったりしておりました。殿様で居られたときか、ご隠居されたときかははっきりしませんが萬姫という婦人を市十郎に嫁がせま した。その理由としては武士の家に嫁がせるより市十郎の妻にしたほうが生涯を楽に送れると思ったからです。この萬姫を光圀公は隠して可愛がっておりました が自分のお子であるとも言われております。萬姫は長生きで1758年の冬水戸家五代良公様(徳川 宗翰様(とくがわ むねもと)が始めて水戸へご帰郷の折、はじめて瑞龍の先祖の墓参りに来られたとき、 80歳になっておりました。鈴木家を立ち寄りお休みした際、書院の縁 側に着物のすそをまくりながら、孫娘を従え、待っておりました。お殿様が着座すると丁寧にご挨拶をし、ご座布団まで進み出でて、つくずくお殿様の拝顔し、 血筋からか光圀公にお顔が似ていらっしゃるといい退座致しました。萬姫様のお年から考えてみると光圀公が藩主であったときが有力でしょう。萬姫の遺したも のを見ると幼年のときに着たと思える錦の袖なし羽織、または彩色のある絵数枚があり、中でも弁慶が薙刀をふるいそれにたこがからんでいる絵がありました。 また、箱入りにて源氏物語の灌頂の巻(土佐家一門の方が描いたもの)がありました。そのほかお城の奥女中の方々の手紙がありましたが今はわずかしかありま せん。そのお城で能が開催されたときの一通の手紙にこのようなことも書いてありました。お殿様に今で言うサイン色紙のようなものおねだりして絹の白布をご 用意したが殿様はこのようなことはしないものだとし、代わりに有栖川親王の直筆の書を近習を通して送り、これを掛け軸とせよとし書院に掲げられたと言うエ ピソードも含まれています。光圀公の時代の鈴木市十郎は大阪に上り、繰り綿の買占めをし、産を成しましたが当時の法律で買占めは違法であったため、大阪表 にて検挙され入牢し、最後は牢死したと伝え聞いています。萬姫も出生の子供がいなくて養子を迎えて鈴木家を継いだとのことです。その後についてははっきり とわかりませんが現在継いでいる市十郎にとっては姫様がいずれの生まれで、誰の子かを知らず、ましてや母である人の名まで知らないのはあまりにも残念で嘆 かわしいことでもある。これは西山に伝わる文献の雑話であるがまた説が分かれる話があり、萬姫には二人の女の子があり、姉を満、妹を熊といったという系図 が鈴木家に残っている。これには鈴木家は常陸太田市天神林町の出身で佐竹に仕え、佐竹氏の秋田移封にともなってその後額田に移ってきたという。市十郎は最 初の妻を大方の堀江家から迎え、後添えとして光圀公から娘をいただいたとのことでもある。このお姫様が満利姫といったという。光圀公は公式には本妻には子 を持たぬと宣言したといい、跡継ぎに自分の子をすることはなかった。自分も親から水にせよというのを家来が密かに育てたという。このような経緯から額田で 満利姫を御落胤とするも体裁を考え、上の寛永寺にわざと捨て子させ、その子を養育してきたという説もある。なお、参考までに、旧金砂郷町大方の堀江家の書 院も有名で現在に残っている。