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2018年05月23日(水)

棚倉街道の誤解

額田地区を南北にを通り抜ける国道349号線は、別名太田街道と呼ばれ、江戸時代まで遡れば、棚倉街道と呼ばれていた。
しかし江戸時代の棚倉街道は、額田地内において、今の国道349号線とは違ったルートを辿る。
何故なら、額田城の南の低地は今は干拓された田園風景なのであるが、江戸時代には有ヶ池という大きな沼が存在していたからである。
そのため、水戸から額田坂下まで来た街道は、有ヶ池に行く手を遮られ、そこから東方か西方に大きく迂回することになる。
すなわち、東側は向山米崎を回り額田東郷の坂を上がり、馬坂を経由して久慈川の渡しへ。
西側は高岡の一部から鱗勝院西側を通り、引接寺の堀に沿い額田城郭の外縁を辿るようにして額田北郷に抜け、船渡りから河合に渡った。
最近の出版物には誤解されるようなものもあるので留意したい。
国道349号線旧道とバイパスの間にある「鈴木家住宅(茨城県指定文化財)」は、当時は街道沿いだったことになる。


鈴木家住宅
悠久の歴史-江戸時代 棚倉街道